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おおざっぱなコラム まとめ~考古学編~

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考古学に関する自筆コンテンツと関連コンテンツをまとめました。 お楽しみください。
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#弥生時代

プレ皇室研究: 奴国 安徳台遺跡

この遺跡、忘れてましたー。 奴国の居住地で、王の館があったんじゃないかって話です。 「弥生時代中期(約2,000年前)の拠点的な集落で、これまでの調査で130軒を超える住居跡や多数の墳墓が見つかっている。 直径15mを超える日本最大級の竪穴住居や、青銅器の鋳型などの鋳造関連遺物や舶来してきた鉄斧を再利用した道具が出土した竪穴住居跡が見つかっており、一般的な住居とは異なる性格をもつと考えられる。 2号甕棺墓からは鉄剣、鉄戈、ガラス製勾玉、南島で産出するゴホウラを使用した貝輪が

プレ皇室研究: 方形周溝墓を調べる

リストを検索したけどないんです。 九州1か所、瀬戸内海周辺、大阪、あとは関東に進んでいきまして、そこで終わります。数だけなら関東の方が多いかもです。 でも写真を撮っている人がいて、いくつか紹介されているので、リンクします。 「方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったと考えられる。しかし、着装品の有無や赤色顔料の使用の有無などから序列化ができあがっていた。また、いくつもの方形周溝墓が密接して営まれることが多かったようである。溝に埋葬さ

邪馬台国研究: ため池を調べてみた。

邪馬台国四国説で、「四国に牛馬はいない。」というのがあるのだが、四国だけが、昔から牛馬がいないのだ。 なぜかというと、四国は渇水になりやすく、ため池が多く、牛馬がため池の水を飲んだり、排せつをすると汚くなるので、最初から牛馬をいれないのだそうだ。 しかし、あれ? ため池って、何世紀からあるんじゃー!??って思って調べてみた。 ちょっとやばい。邪馬台国四国山上説、アウトかー!!??? 例によって、とりあえずWikipediaだっつ!! →いつも安易www 「日本の弥生時代に

プレ皇室研究: 紀元前3世紀に何があったか、調べてみた。

私のプレ皇室研究でいいますと、紀元前200年前後がイザナギイザナミの時代です。紀元前210年くらいかもしれないですが・・・。 では、紀元前250年ー300年、つまり紀元前3世紀に何があったか調べてみましょう。ただし、縄文人はもっと前からいるので、あくまで弥生時代っぽいものに限定します。 富士山の近くに、ちょっと遺跡があるのをみつけて、弥生時代のものらしい土器と剣が出ています。しかし、稲作はまだとあります。静岡県なので、まあ、九州ほど稲作が広まっていないのかなと思います。

プレ皇室研究: 鳥居について調べてみましたー。注連柱(しめばしら)、冠木門

そういえば、神道のシンボルの鳥居って、いつからああいうデザインになったんだろうって気になったので、調べてみました。 「アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっており[12]、また他にも多くの遺蹟でも同様である[20]。 そのほか、更に遡った歴史観として「鳥居を赤く染めるのは古代ユダヤ教(ヘブライ聖書)の影響を受けている」や「秦氏はイスラエルの失われた10支族の一族である

プレ皇室研究: 奈良県橿原市の遺跡

そういえば、先日出雲地方については神武天皇の前後の時代を調べたのだ。 はっきりいって、だいたい時期はあっていたのだ。 だから、天照大神と出雲一族の国譲りは、時代的に矛盾がないのだ。これが、300年とかずれていたら、ほら吹きであるが・・・。 灯台下暗しで、移住先の奈良県橿原市付近の遺跡について、調べるのを忘れていたので、確認するのだ。 1つめ 阿波忌部氏の本家 忌部氏の本拠地だ。 忌部山ってあるんだけど、これがなんと高地性集落なんだそうだ。ああー! 盲点だったよ。「倭国大乱

プレ皇室研究: 古代の人口

古代の人口を計算するのって、たぶんすごい難しいと思うのだが、やっている人がいて、紹介されているので、リンクします。グラフはそこからの引用です。 AD200年あたりに急増しています。 180年くらいとすると倭国大乱の時期です。 ああ、気候変動で外国から日本に逃げてきたのかもしれないですね。 弥生時代に入って、鉄器が普及しはじめると、農業の効率があがるので、人口が増えたのじゃないかなと思います。ついでに、朝鮮半島から、やってきた人もいるし。 (訂正 2023/11/29)

プレ皇室研究: 奴国は、古代のハイテクシティーだった。

伊都国のほうがすごいのかなと思っていたら、奴国、ぜんぜん負けていない。 ていうか、奴国のほうが別の意味ですごい。 「板付遺跡 福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡。 弥生時代が主であるが、それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳~中世の遺跡もある複合遺跡。 長らく渡来人によって弥生時代に伝来したと考えられていた水稲栽培が縄文時代から行われていたことを示す最初の遺跡として全国に知られる。」 「遺跡群内の須玖岡本遺跡は、1899年(明治32年)に王の墓域

どっちが古いねん? 九州VS四国

四国の神社は、けっこう古い。 邪馬台国が3世紀なので、そのときからあっても不思議はないのがある。 「「若杉山遺跡」は、1世紀初頭から3世紀後半にかけての遺跡で、採掘が最も活発であったのは2世紀後半から3世紀前半。」 「阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、古代の祭祀に使用された赤色顔料である水銀朱を生産した縄文時代後期(約4000年前)の石臼や石杵が300点以上。また、水銀朱原料としての辰砂原石が大量に出土した。水銀朱の関連遺物の出土量としては国内最多、生産拠点としては国内