学校をめぐる僕の進路選択について。

とても個人的な僕の進路選択についてのアレコレに、とても普遍的な課題が含まれていると思うから、すごく個人的なことだけれども、書いてみようと思う。

何で教員やってるのっていう話から、いや、もしかしたら、自分がやるべきことは教員ではないかもしれないという話に至るまでの話。

この話は、想いを持って教員をしている人にも読んでもらいたいし、想いを持って教員ではない道を選択した人にも読んでもらいたい。

また、親として学校教育に関心がある人にも読んでもらいたいし、親として子どもが過ごす居場所として学校以外の選択肢があるかもしれないと思っている人にも読んでもらいたい。

もしかしたら、小・中・高の学校教育の渦中にいる人にとっても、何かしらのヒントになるようなことがあるかもしれない。

要は、学校内外の教育に少なくとも何かしらの関心を持っている人には読んでもらいたいということだ。


前半は、僕の幼少期の話をしようと思う。

僕の幼少期のしんどかった話は、見方によっては、弱者のルサンチマン(嫉妬)に見えるかもしれない。

僕は、自分の話をそういうふうに見てはいないけれども、そういうふうに解釈して見てもらっても構わない。

ニーチェの視点から見れば、そういうふうにも見えるからだ。

僕は、ずっと納得のいかない幼少期を過ごしてきた。

何がどのように納得がいかないのかということは、上手く言語化するのが難しいのだが、とにかく、納得がいかないことがたくさんあった。

思いつくものを、思いつくままに羅列していこう。

①あだ名。
この話は、人に話すのが恥ずかしくて憚られると思って、あまり記事に書いたことはなかったのだけれども、僕は、生まれてから大学を卒業するまで、ずっと、自分が嫌だと感じるあだ名をつけられ続けてきた。
小学校、中学校、高校、大学。
それぞれ、人が入れ替わり、とりわけ、中学から高校と、高校から大学は、自分が知っている人がいない学校に進学したから、それぞれの学校で人間関係は変わっているのだけれども、その時々で、全く違うあだ名をつけられた。
僕は、あだ名という文化が嫌いだ。
あだ名を使って、人と人がお互いの領域を侵食し合うのを気持ち悪いと感じてしまうからだ。
これには好みがあると思う。
そういうあだ名で呼び合う文化が好きな人もいるだろう。
そういう人たちがお互いをあだ名で呼び合うことに関しては、何とも思わない。
好きにすればいいと思っている。
でも、僕は、人からあだ名で呼ばれるのは嫌いだし、人をあだ名で呼ぶことにも抵抗感がある。
だから、あだ名で呼ばれるのを好む人に対して、その人がその名前で呼ばれるのを好んでいるからということであだ名で呼ぶときには、勇気を出して、あだ名で読んでいる。
そのあだ名を名前だと思うようにしている。
そうすると、なんとか、人をあだ名で呼ぶことができる。
でも、自分があだ名で呼ばれるのは嫌だ。
もうあだ名で呼ばれるのに慣れてしまっている人からだと、あだ名で呼ばれても何とも思わないこともあるけれども、少なくとも、新しくあだ名で呼ばれるようになるときには、すごく抵抗感を感じる。
だから、自分の名前以外の呼ばれたいあだ名を名札に書かなければいけないという場所に行くと、すごくしんどい。
僕は、そういう人間だ。
なのに、なぜだか分からないが、小・中・高・大と、学校では、いつも、何かしらのあだ名をつけられていた。
ずっと嫌だった。
でも、僕は、本当に嫌だったのだけれども、周りの人たちは、あだ名で呼ぶのをやめてくれなかった。
きっと、僕は、自分が嫌がっているということの意志表示をするのが下手なのだと思う。
周りは、僕が本当に嫌がっているとは思っていなかったのかもしれない。
でも、僕は、あだ名で呼ばれることが本当に嫌だったし、何度もやめてほしいとも言ってきた。
それでもやめてくれなかったのは、あだ名で呼ばれることが嫌だと感じるという感性に対する感度がない人たちがたくさんいて、その人たちがマジョリティとして、僕のことをあだ名で呼び続け、結局、僕のことをあだ名で呼ぶことが僕の周りの社会に文化として浸透していき、僕のことをあだ名で呼ぶというあり方が定着するというプロセスがあったからなのではないかと思う。
とにかく、僕は、あだ名で呼ばれるのが心から嫌だったけれども、小・中・高・大の学生時代、ずっと、周りからあだ名で呼ばれ続けた。

今回の記事では、こんな話をつらつらと書いていくと思う。
こんな弱くてカッコ悪い自分のことを書くのは、ここまでの時点でもうすでにだいぶ恥ずかしい。
だけど、きっと、全部出し切らないと、今回僕が書きたいことについては書けない。
そう思っている。
だから、恥ずかしいけれども、こういうことを書いていく。

②学校での序列。
僕は、難しい言葉は知らなかったけれども、人というのは、本来的に平等な権利を持っているということを、感覚としてずっと大切にしていたように思う。
他者に危害を加えなければ、誰が何をやったって自由だと、そう思っていた。(大学で、J・S・ミルの『自由論』を読み、そこで他者に危害を加えなければ自由だという考え方が定式化されているのを読んだときは、「そう、まさに、これ!」と思ったのを覚えている。しかし、ミルの『自由論』の定式化を国家の社会規範として定立することができるのかとなると、難しい問題があるのだけれども、そのことについては今回の記事では関係のない話なので割愛しよう。)
クラスの中でイケテナイと見られているクラスメイト(何をもってそう言えるかという点は議論の余地があるところだけれども、その点については検討していくと本筋から逸れてしまうので、ここでは深入りしないこととしたい。)がいきなり髪を染めてきたって、全然いいと思っていたし(そもそも、僕は、学校で髪を染めることが禁止されるべきだと思っていないというのは前提としてあるのだが。)、勉強が苦手なガキ大将気質のクラスメイト(今はそういう子がいるのかどうかは分からないが。)が真面目に勉強する姿を見せたっていいと思っていたし、同質性の高い友だちグループの中の一人の子が、普段はグループの人たちと意見を合わせているけれども本当は自分の軸をしっかり持っていて大事なときには自分の信念を貫いたっていいと思っていた。
いや、幼少期、それをこんなに言語化することはできていなかったけれども、こういう感覚が自分の中にはあったように思う。
だから、学校の教室の中にある序列意識(いわゆる、スクールカーストと呼ばれるようなもの。)には、ずっと違和感を抱いていた。
教室の中で、イケてるとされている人たちは休み時間に自由に大きな声で盛り上がり、イケテナイとされている人たちは静かに過ごさなければいけないというようなことが当たり前だというのを押し付けてこられたりしたときには、その考え方に強く反対していたように思う。(一方で、休み時間であれば、大きな声で盛り上がることも自由だと思っていたから、イケてるとされている人たちが盛り上がることを禁止するべきだとも思っていなかったが。)
どんな人でも、お互いに良いと思っているのであれば、自由に仲良くなれば良いと思っていた。
だから、イケてるとされている人とイケテナイとされている人が仲良くすることができない雰囲気がすごく嫌だった。
僕は、幼少期から、ずっと、容姿が幼かった。
卒業アルバムで中学校の入学式の写真を見ても、一人だけ小学校中学年ぐらいに見える。
それくらい、幼く見えた。
だから、ちょっと大人っぽく見える男の子がイケてると見られる学校の文化(これは、僕のいた学校だけだろうか、おそらく、僕のいた学校だけではないと、僕は思っているのだけれども。)の中では、僕は、イケてると思われたことがない。(少なくとも、そういうグループに所属したことがない。)
でも、僕には、なぜか、昔からいつも、近くにイケメンの親友がいた。(イケメンを何をもってイケメンとするかとかそういうことも考えていくと難しいけれども、ひとまず、多くの人から容姿が良いと思われている人ぐらいの意味で受け取ってもらいたい。)
周りの人たちは、よく、イケテナイ僕と明らかにイケてる人であるイケメンの親友が、なぜ仲良くしているのかということを訝しんだ。
でも、僕は、たまたま自分にとっていいなぁと思う人がイケメンだっただけで、それで、その人と仲良くなりたいと思って声をかけたら、たまたま仲良くなれたというだけだった。
容姿は、あんまり関係なかった。
いや、もしかしたら、僕のうちには、クラスの中でイケてる人と仲良くなって、なんとか自分もそういうグループに入りたいという気持ちが潜在意識の中にあって、仲良くなってくれたイケメンの親友は、心もイケメンだから、そんな卑屈な潜在意識を持った僕とも分け隔てなく接してくれて、結果的に、周りの人たちから見れば不釣り合いに見える友情関係が成立していたのかもしれない。
でも、少なくとも、僕にはそういうつもりは微塵もなくて、ただ純粋に、自分にとって仲良くなりたいと思った人と仲良くなりたいだけだった。
そもそも、イケてる人のグループに入りたいという発想が僕にはなかった。
なぜなら、僕にはグループに入るということ自体に拒否感があるからだ。
でも、学校の教室の中に不文律のように成立しているグループの意識のようなものがあり、何か自由にグループをつくってグループワークをするときには必ずそのグループのメンバー同士で何かをするということになっていることに対しては、なんだか嫌だなと思っていた。
というのも、「お前は下のグループなんだから、上のグループに入れるわけないだろ」というような圧力を感じることがあったからだ。
僕は、別に上も下もないと思っていたけれども、いろんな人と知り合って、仲良くなりたいと思っていた。
でも、この上下のグループ意識によってそれが阻まれることがよくあった。
このことに関しては、すごく嫌だと感じていた。

③起立性調節障害。
起立性調節障害というものをご存知だろうか。
僕は、大人になってからこの名前を知り、「あ、まさに、自分はこれだった!」と思った。
簡単に言うと、自律神経や血圧の関係で、朝起きることが難しかったり、ずっと立っているとめまいを起こしてしまったりするという症状を起こすものをさす。
僕は、幼少期、朝起きるのがしんどかった。
いや、大人になった今でも、朝起きるのがしんどい。
そう言うと、「いや、朝は誰だって起きるのはしんどい」と言われることがある。
でも、他人の感覚と自分の感覚は比べることができないから、確信を持って言うことはできないのだけれども、たぶん、僕の朝起きるのがしんどいは、他の人の朝起きるのがしんどいよりもしんどい。
いや、比べようのないしんどさに序列をつけることはできないから、こう言うのはやめた方がいいかもしれない。
でも、少なくとも、僕にとっては、朝目が覚めてからすぐに起き上がることが、とても難しい。
朝目を覚ましてから起き上がるまで、30分から1時間、長いと2時間ぐらいかかる。
それまで、身体が動かないのだ。
僕の朝は、ちょっとずつ、身体の隅々に意識を向けて、力を入れてみることから始まる。
最初は、ただ力を入れることしかできない。
力を入れても動きはしない。
徐々に、身体のいろんなところに力を入れるうちに、少しずつ身体が動くようになっていく。
あくまで自己診断で、医者から診断を受けたわけではないが、自分は、起立性調節障害を抱えていると思っている。
また、これも自己診断だが、僕には、睡眠障害もある。
夜、うまく入眠することができない。
部屋を暗くして、目を閉じて眠ろうとしても、眠ることができない。
意識して眠ろうとしても上手く眠れないのだ。
だから、僕は、もう何年も、Huluでアニメやドラマを観ながら寝落ちするという入眠方法を採用している。
これが、睡眠の質を下げている可能性があるということは自分でも分かっているのだが、こうやって入眠しないと、睡眠に入ることができないのだ。
睡眠障害のことについては、詳しく書いていけばいろいろあるのだが、ひとまず、このあたりにしておこうと思う。
ここで睡眠障害を取り上げたのは、起立性調節障害とセットになると厄介だということを言いたいからだ。
夜なかなか寝付けないから、睡眠時間が確保できなくて、ただでさえ起立性調節障害で朝起きることが難しいのに、余計に起きられなくなる。
そんな悩みを抱えていた。
僕にとって、睡眠と起床の問題は、人生の中でずっとついて回ってきた悩ましい問題だった。
ただ、この睡眠障害と起立性調節障害をセットで抱えていることについては、幼少期、なかなか周りに理解してもらえなかった。
朝起きることができないと、無理矢理叩き起こされて、しんどい思いをした。
朝起きられなくて学校に遅刻していくと、サボりだと言われた。
サボりだと言われるのが嫌で、結局、学校を休んでしまうこともあった。
しかし、学校を休んだのに、夕方に外を出歩いたり、塾に行ったりすると、学校のクラスメイトに出会ってしまい、変な目で見られる。
それがすごく嫌だった。

④ありたい自分でいられない。
幼少期の僕は、学校で、ありたい自分でいられたことがあまりない。
担任の先生やクラスメイトに恵まれて、ありたい自分でいられたことも、何度かはあったように思う。
でも、そういうときは、学校生活全体で見れば、少なかった。
僕にとっては、学校生活というのは、ずっと落ち着かなくて、忙しかった。
ずっと追われている感覚があった。
もう少しゆっくり落ち着いて過ごしたかった。
勉強も、しんどかった。
自分ができないこと、苦手なことを、ずっと教室で聞かされるということが苦痛だった。
もっと、自分の関心のあることについて、じっくり考えたいと思っていた。
行事も、楽しいと思ったことはなかった。
いや、一時的に楽しいと感じたことはあったかもしれないけれども、少なくとも、今の自分の中に、楽しかった想い出のようなものは何もない。
基本的に、学校は、ありたい自分でいられる場所ではなかった。

今になって思えば、これは、全部、学校が責任を負うべき問題なのかどうかということに疑問を持つ部分も多い。
けれども、当時は、学校が生活の大部分を占めていたから、こういったしんどさの積み重ねによって、僕の中の学校イメージはすごく悪かった。
学校=悪だった。


それで、僕の中では悪であった学校を変えたいという気持ちが出発点にあって、僕は教員になった。

少なくとも、僕が教員になって、僕にとってしんどいと思ったことを変えていけば、僕の手の届く範囲の中では、そのしんどさをなくしていけるだろうと思った。

教員生活の中では、僕は、担任をしたり、特別支援教室(通級)の担当をしたり、いろんな立場を経験した。

その中で、僕にとっての学校のしんどさを改善するために、精一杯やってきたつもりだ。

それがどれだけ成功したかということの答えについては、実際に僕と関わった子どもたちやその保護者の方々だけが持っていると思うから、僕の方でどうこう言うことはできないと思っているけれども、自分の感覚としては、成し遂げられたことも少なくはないと思っている。

ただ、一方で、ここであげてきたようなしんどさというのは、果たして、教員として解決することができる問題なのだろうかという疑問もある。

第一に、学校という場のあり方は、一人の教員によって決まるわけではない。
他の教員や地域柄によっても変わってくるし、何よりも、子どもたちによって規定される部分も大きい。
もし教員がクラスのあり方を規定しているとすれば、それは、教員が絶対的な権力を持って子どもを支配しているということになるだろう。
そのあり方は望ましくもないし、実際にそうもなっていないだろうと思う。
もちろん、教員の影響力が大きいということは間違いないのではあるが。

第二に、学校というシステム自体がしんどい場合はどうしようもないという問題がある。
ここで言おうとしているのは、たとえば、集団生活であるということや、朝から夕方までのカリキュラムが決まっていること、みんなである程度同じことをするということが決められていることなどだ。
そういう学校のシステム自体を大きく変えようとしている学校もあるけれども、学校である以上は変えることが難しいシステムもある。
そうなったときに、教員として学校に入っても、改善できることには限界があるのではないかと考えられる。

第三に、僕にとっては悪であると感じられたものが、他の人にとっては善であると感じられることもある。
教員になってから、ますます実感していることだが、僕にとってしんどいものが、多くの子どもにとっては楽しいものであるということがある。
たとえば、運動会は、僕がそう感じるものの一つだ。
僕にとって、運動会は、しんどくてたまらない行事だった。
だから、ずっと、なくなってほしいと思っていたし、なくすべきだとさえ思っていた。
けれども、教員をやって分かったことは、学校には、間違いなく、運動会を楽しみにしているという子たちが多くいるということだ。(一方で、やっぱり運動会がしんどいという子たちがいるということも、教員をしてよく分かった。)
修学旅行なども、そうだ。
僕にとって、修学旅行は、全く楽しみな行事ではなかった。
幼少期の僕にとっては、自分の知らないところに行くというのが不安だった。
また、集団で行動することがしんどかった。
観光地や歴史的なものを観ることに対して、全く興味がなかったので、まず自分のエネルギーをそこに割くということ自体が嫌だった。
でも、学校には修学旅行を楽しみにしている子どもたちがいる。
行事だけではなく、教科学習でもそうだ。
僕にとっては、図工・美術・技術・家庭科などの物をつくる作業が中心となる教科はすべて苦痛だったが(僕は、こうした教科で作品をつくることになって、作品が完成したことがほとんどない。)、こういった教科を楽しみにしている子どもは少なくない。
だから、僕が悪だと思って変えようとすること自体が、誰かにとっての善だと思うものを奪うことになりかねない。
もちろん、僕にとっての悪だと思うものを変えることが、即、誰かの善だと思うものを奪うことではないと思っている。誰かにとっての善だと思うものを残しつつ、僕にとっての悪だと思うものを取り除くというあり方は模索するべきだと思うし、そういうあり方は十分に可能なこともあるように思う。
けれども、学校を変えることだけが、僕にとっての問題の解決策ではないような気もするのだ。


そういうわけで、僕は、教員という仕事に可能性を感じつつ、同時に、教員としてできることの限界をも感じるようになってきている。

学校がしんどいなら、学校じゃないところにしんどくない場所があればいい。

それでも良いではないかと、最近は、そんなことを思う。

学校に行かない選択をした子やその保護者の方が、安心して過ごせる場所を提供したい。

そして、その場所を(単なる勉強という意味ではない)学びのある場所にしたい。

何がどのような学びとして生起するかは分からないけれども、僕は、アニメだって、漫画だって、ドラマだって、何だって学びにつながっていると思っているから、ただ、何かそこで生起したものを学びにつなげられればそれでいいと思っている。(というよりも、つなげるのは、僕ではなくて学び手自身なのだけれども、少なくとも、僕は、学びが生まれるための環境をつくる人でありたいと思う。)


学校じゃないところにしんどくない場所があるというのはどういうことか。

最後に、そういうことを考えたい。

僕は、前半に、僕にとってしんどかった、①あだ名、②学校での序列、③起立性調節障害、④ありたい自分でいられないということについて書いた。

僕は、ずっと、僕がしんどいのは、周りが間違ってるせいだと思ってきた。

僕は、だいぶ不遜な人間だ。

きっと、崇高な思想の持ち主なら、周りのせいにしないで、自分に矢印を向けたらどうだと言うだろう。

でも、僕は、ずっと自分に矢印を向けて、ダメージを負ってきたのだ。

でも、それでも、どうしても、そこは、自分が悪いわけではないと思うことだってある。

いや、自分が悪いわけではないことが、即、周りが間違っているというわけではない。

だから、周りが間違っているというふうに言うのは、僕の周りの人たちを不当に貶めることになるだろう。

けれども、控えめに言って、そもそも、学校の僕がいた環境で正しいと了解されていた規範性(それは明示的なものも暗示的なものも含む。)とは異なる規範性を持つ環境に行けばしんどい思いをしなくて済んだ可能性は大いにあると思うのだ。

つまり、学校にとっては嫌な言い方になるかもしれないが、学校には幼少期の僕にとってしんどいと感じるような規範性があり、それとは異なる可能性を提供できなかったということなのだと思うのだ。

これは、だから学校が悪いということを言っているのではない。

仕方のないことでもあると思う。

もしかしたら、学校にも、それとは異なる可能性を提供することができる力はあるのかもしれない。

でも、学校の外にそれとは異なる可能性を提供することができる場所があれば、それでいいのかもしれない。

そんなことを思っている。

教員として学校のしんどさをなくしていくために邁進する方向をとるのか、学校の外に学校がしんどい人にとってのしんどくない場所をつくる方向をとるのか、模索していきたい。

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