脳は、なんら変わっちゃいないらしい。

 ある国の特色や傾向を考えるにあたって、参照されるもの、その一つに『言語』があるのではないでしょうか。

 私が先日、気になったのは「年上には敬語を使うものだ。」という大人から子どもへの発言があった一場面です。

ここに、閃いたのは「年上 目上 敬うべき」といった日本語です。

 まずは、「目上」という言葉についてです。
 イメージしてください、「目上」
 「上目遣い」というのは、大変かわいらしいものですが、「目上」となると厳かな雰囲気が漂ってきませんか。
 人によっては、「上司」という言葉・イメージが想起されたり、「逆らえない」「逆らってはならない」といった、何か自分を抑圧・制御せざるを得ないようなイメージを抱いたりされた人もいるかもしれません。いかがでしょう。
 目上の人間というのは、いつだって、見下ろしてくる。目が上についているのではなく、目が相対的に高い位置にある。つまり地面からの位置、高さにおける「上」なのではないでしょうか。
 言うまでもありませんが、「目上」が存在するということは、「目下」が存在するわけです。
 
 「年上」「年下」というのは、生まれた年月によるもので、時間軸で判断・決定されるものかと思います。こればかりは、自己の意志で変化を与えることができませんから、年上、年下という言葉に嫌な感じは、さほどないのではないでしょうか。
 もちろん、「年上だから、…」「年下だから、…」という利益・不利益を感じることも多々あると思います。

 話は戻ります。「目上」「目下」これには、世間一般の共通基準があるでしょうか。
 おそらく、見かけでは判断しかねます。では、何で判断・区別をしているのでしょうか。

 それは、年齢、歴、役職、スキルなど様々な要素が入ってくると思います。

 おかしいです。年齢はまだしも、その他の要素には、納得しがたいものがあるのではないでしょうか。
 「目上」「目下」を構成しいているものは、何でしょう。一体、誰でしょう。おそらく、我々が幼いころから受けた言葉、教育の数々もその一つだと思います。

 たとえば、学校現場において。
先生方は一人称が「先生」である場合が多いように感じます。特に子どもに話す場面において。
 ここで、英語の場合を考えてほしいのですが、おそらく一人称は「I」です。おそらく英語を主言語としている教師たちも、自分のことを「先生は」と思いつつも「I」で話すことでしょう。

 日本のように「先生は」という一人称で話し始めた時点で、もう権力を振りかざしているような気もしないでもない。「先生」と「児童生徒」の間に明確に線引きをし、権力を誇示しているように感じるのは私だけでしょうか。

 そのくせ、「人はみな平等であるべき、対等に接するべきだ」なんて唱えたり、児童生徒に叱責、指導したりする教師がいます。やや矛盾を感じるな、と思ってしまいます。これを「屁理屈だ!」と言われてしまえば、それまでなのですが、ちょっぴり言葉の使い方や、その作用について考えるきっかけになればなと思っています。

 「先生」と呼ぶのは児童生徒であって、教師が自分のことを「先生」と呼ぶ文化は、いつ始まったのでしょうか。誰のマネをしているのでしょうか。
 児童生徒、またその保護者が教師のことを「先生」と呼ぶ、それ自体は、社会でのマナーではあると思います。
 ただ、忘れてはならないのは、「先生」と決める・判断するのは「児童生徒」自身だと思うのです。
 つまり、教師は、おごり高ぶってはならない。無論、先生であるか否かは、他者が決めることなのであるという本質を忘れてはならんと思います。

 固定観念、こりかたまった「べき論」を今一度、ゼロにして考える、誰かの言葉を借りるならば「常識を疑え!」ということでしょうか。

 話題が大変、飛躍しましたが、身の回りで「当たり前」として見過ごされてきた事象について、再考する、アップデートしていくのは現在を生きる我々にしかできないことであると感じています。いかがでしょう、あなたの身の回りの「当たり前」、何か「ん?おかしいかも…」って思うもの、見っけてしまったんじゃないですか?

 我々が後世に、何を残すのか、何を刷新、よくない状態を除き去って、気風を全く新しくするのか、その岐路に立たされているように感じてきたのではないでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?