「タイムイズマネー」について


「タイムイズマネー」ていう言葉、これはどこかで聞いたことがあると思うのです。
 読んで字のごとく「時は金なり」。時間=お金
「お金は時間を生む」「時間はお金を生む」「時間を無駄にする者はお金を手にすることはない」「時間はお金のように大切に扱え」…などなど、様々な思想・解釈が想像されるような言葉だなと思います。
 そこで、今日は、そこをちょこっと僕なりに深掘りです。

 「時間」という言葉が現代社会で、どのように使われているかなと書き出してみます。
・時間を「つかう」
・時間を「とられる」
・時間が「たりない」
・時間が「もったいない」
・時間が「ひつようだ」
・時間を「無駄にするな」
・時間が「かかる」
・時間が「あればなぁ」

 ざっと挙げてみましたが、いかがでしょう?
特に違和感なく、想像ついたのではないでしょうか。

 さて、話は戻ります。「タイムイズマネー」
上記の「時間」という部分に「お金」を当てはめてみましょう。

・お金を「つかう」
・お金を「とられる」
・お金が「たりない」
・お金が「もったいない」
・お金が「ひつようだ」
・お金を「無駄にするな」
・お金が「かかる」
・お金が「あればなぁ」

 いかがでしょう。
あら、不思議。またしても違和感ないです。

 ということは、やっぱり「タイムイズマネー」?

 しかし、思い出してほしいのです。
 そもそも我々が生きている「時間」というものは、本来「生きる」ものなはずです。同じようなニュアンスであれば「過ごす」でしょうか。
・時間を「生きる」
・時間を「過ごす」

 現代社会において求められる「効率化」「タイパ(タイムパフォーマンス)」。
 動画視聴においては倍速で見る、もしくは倍速でみることを前提とした制作、ショートフィルムの流行、書店へ足を運べば「時間」の「使い方」・「効率的な時間術」といったコピーがズラリ。
 限られた時間の中で、人々は「より多く」のモノゴトを手に入れたい、限られた時間を「有意義に使いたい」「無駄にしたくない」、そういうマインドセットを知らず知らずのうちにメディアから植え付けられている。そんなことを、ふと思いました。

 まとめると、「時間」は「生産的な活動に充てなければならない」という概念です。
 つまり、「タイムイズマネー」。この「マネー」は「貨幣」というより「資金」を指しているのだろう、少なくとも現代社会では、ということです。
 資本主義的な考え方を凝縮したようなフレーズだなと思います。

 人々に「あなたの時間は、資金ですよ。周囲の人々は、こんなことをして、その資金を増やしていますよ。(さぁ、あなたはどう時間をつかいますか?)」というメッセージを発信するメディア。
 転職、キャリアアップ、効率化という「価値」を作りだし、それを手に入れることができるような「商品」を作りだし、購入を促す。
 身の回りの、あらゆるモノゴトが「商品化」されています。「競争社会」に投げこまれた現代人。私たちは、いったい何に操られ、どこに向かっているのでしょうか。そこに疑問符をおいたり、考え続けたりしていないといけない気がします。

 「資本主義」という枠組みが我々現代人のデフォルト状態となっている。そのゲームに知らず知らずのうちにプレーヤーとして参加させられている。自覚しないうちに、サッカーフィールドに立っていて、そこでいかにゴールを決めるか、どうやって相手チームを打ち負かすかというスタートラインに立っている。その攻略法法は研究はされるものの、「どうして相手のゴールにボールを蹴り込まなければいけにのか?」という、そもそもの疑問にこたえてくれるような研究は多くない、という感じではないでしょうか。

 「働いて、お金を稼いで、消費する」というサイクル。これが「時間」の多くを占めているような気がしてきたのではないでしょうか。

とはいえ、我々の生活は大変便利な世の中になった。世界相対的にみてっも、日本は過ごしやすいという評価もあるようで。(日本のことを「貧乏だけれど豊かな国」と表現しているコピーをどこかで見たのですが、うまいなぁと思いました。)
ただ、計算できる、目に見える、言葉によって明確に表現できるもの、それらを獲得した「近代化」の延長線上の「現代」。しかし、喪失したものは、計算できなもの、目に見えないもの、言葉によって表現することのできないものが多い。合理性に重点化すると「無駄」扱いされるものは、きっと後者の方です。


 「時間」の話から、少し逸れるのですが「時計」についてです。
 ヨーロッパの都市の中心、都市の中心の広場には、教会や市役所、大時計がある。いつのころからかと調べてみると14世紀の前半、イタリアの諸都市で初めて「公共用時打時計」が設置されたようです。そして、ドイツ、オランダ、スイス、フランス、ベルギー、イギリスといった順に大時計が設置される。
 それから、人々は「時間を計りながら生きる」という生活を始めた。つまり、「時間」という枠組みの中に人の生が置かれたということ。
ただ、この時代は、時計の針は一本であり、「分針」というものはなかった。裏を返せば「分」という単位は、未だ生活に必要なかったのでしょう。それが今では「二本針」どころか「秒針」までついていることが当たり前である。
 私たちの生活は14世紀前半の近代に比べて、その生活時間の単位は
3600分の1に、細かくなっています。
 「1分1秒を争う」なんていうフレーズもありますよね。

 なんともまとまりのない文章になってしまいました。私自身も限られた時間で何を生み出せるかな、質のいいものを…と考えて、時間を「つかう」意識が根付いているなと自覚した時間でした。
 あらためて、文字に起こすと、「考えていること」が可視化されて自己反省ができます。

 僕は、死ぬまでの時間、もちろん言語化・数値化できるものごとにも目を向けて生きしたいのですが、僕らの生活のもっと核心的なもの、言語化・数値化しづらい、目には見えないもの、にもしっかり目を向けて、生きていきたいなぁと思うのです。
 モノゴトを嫌いになる理由、良くない点というのは、ほとんどが目に見えるもの、計算できるもの、言葉に表しやすいものだと思うんです。でも、好きになる理由、魅力というのは、目に見えないもの、測定できないもの、言葉では説明できないものが多いじゃないですか。なんか、いいな。とか、なぁんか、好きだなぁ。っていう、それです。

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