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福田翁随想録(35)

 科学技術の行く末を憂う

 人間社会の織り成す事象のなかには正気の沙汰とは思えないものがある。これはわが国に限ったことではなく、世界のいたるところで見られる事象だ。
 人類は死の方向に狂奔しているのか、と思わず絶叫したくなる時がある。

 テレビは二十世紀に発明された機器のうちでも傑作で、今やすっかり生活に融け込んでしまっているが、私が初めてテレビという存在を知ったのは、確か昭和二十五年のことだ。
 なにもかもがまだ不足している時代だった。神戸で日本貿易産業博覧会が開催され、私はたまたま視察した。
 離れた場所でブランコをする子どもの絵がテントのなかに設置された機器の画面に薄茶色く映っていた。同一の動きを別の場所でも見ることができることに驚かされた。機器はお粗末なものだったが、テントのなかで見たあの動画を鮮明に憶えている。
 まさかその三年後、私自身が民間放送に関係しようとは夢にも思っていなかった。もっとも当初はラジオだったが。
 ようやくテレビがお茶の間で話題にのぼりはじめた頃で、新橋駅前広場に設置された受像機に映し出される力道山のプロレス実況放送を観ようとする人でごった返す様子は、歴史に残る風俗風景の一コマとなった。 
 岩手放送がテレビも兼業するようになったのは昭和三十四年だが、この年に皇太子殿下(当時)のご成婚があり、これを機に受像機は爆発的に普及していった。
 当時は白黒テレビで、カラー化の動きに対して機器メーカーは一時苦し紛れに前面に疑似カラーフィルターを取り付けて誤魔化していた。今日では考えられないことだ。
 さすがにこの苦肉の策はすぐになくなったが、全番組がオールカラーになるのは昭和四十一年である。
 今こう書きながらテレビが目を見張るスピードで視聴者に満足を与えてきた過程に関係者自身憮然としているが、この電送方法が山の上や高い所からの可視距離をつなぐやり方から衛星を使った通信になったのだから驚くよりほかない。
 放送局を引退してから地上波のアナログ方式がデジタル方式に一変することに決まり、一挙に三百チャンネルが視聴可能になるという流れに及んではもはや理解を超える。これほどの多チャンネルの電波を、コンテンツを一つの身体でどう受け止めていけるのであろうか。
 高画質で双方向通信ができたにしても、便利になればなるほど逆にテレビのためにこちらが制約されることにならないだろうか。手段が目的にされる義理合はないはずだ。
 このような多チャンネル化い市場開拓に意欲を燃やしているが、物事万事可能だからといってすぐに実用に転じていいものなのかどうか疑問だ。
 クローン牛に成功したからといって、一歩踏み越えて密かに人間に適用する不心得者が出てきたらどうするのか。全く同じコピー人間が生まれてくるとしても、もはやそれは人間ではなく人の形をした玩具なのではないか。
 男女の産み分けが可能となった世の中を想像しただけでも恐ろしくなる。遺伝子工学とやらはどこまで追求したら満足するのか。
 ここで立ち止まってこれらの研究の有り様を真剣に考えなければいけないのではないか。出来るから限界までやってみようというのは、天道、自然の理に背いていないか。

 北欧に旅した時のことを思い出した。わが浅学の愚かさをあえて披露したい。(←文脈から外れると思うが、あえて削除しないでおく)
 私が出かけたのは昭和四十二年だったが、週刊誌は彼の地のフリー・セックス社会を面白おかしく報じていた。
 フィンランドのヘルシンキ空港から市の中心街に向かうバスのなかで、私は発情期の動物のようなあられもない姿を窓から垣間見ることができるかもしれないと期待していたが、一向にそんな光景は見られなかった。
 ストックホルムで日本の青年が結婚詐欺で国際手配されていることを知った。彼も誤解していたのに違いない。男女間のルールがしっかり確立しているからこその「フリー」なのだ。それでこそ「性」が保障される。

 スペースシャトルの宇宙遊泳の様子が報道され世の絶賛を浴びているが、そのニュースに冷酷な目を向けているのはこの私だけだろうか。
 当初宇宙から帰還した飛行士のなかにはその神秘体験に打たれて牧師になった人もいたが、今は誇らしげに無重力世界でクルクル宙返りしてみたり、浮かんだ球形の水を口で受けたりして見せてくれる。
 遊牧民が崇める月の砂漠に地下足袋の跡をつけてしまった。私のこの悲しみと怒りは間違っているのだろうか。

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