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深夜散歩考

 光輝は開け放った窓にもたれて、月明かりに照らされた民家の屋根瓦や神社の境内の樹々を眺めていた。
 とても静かな夜だった。虫たちの軽やかな声しか聴こえない。
 午後十一時をちょっと回ったところ。夕餉の時刻はとうに過ぎている。どの家からもだんらんの賑わいを聴くことができない。
 十月十六日、光輝の誕生日。だからといってなんの感慨もない。特別な日という思いもない。
 ――嬉しくも悲しくもない。いつもと変わらないただの一日。ひとつ歳をとるというだけのこと。この一年、なにか特別な経験をしたわけではないし、前の年と比べて何かが変わったというわけでもない。
 そんなことを考えているところへ、一匹の丸々と太った蠅が涼風と共に舞い込んできた。ぶんぶんと羽音を鳴らして部屋中を飛び回り、幾度となく蛍光灯スタンドにぶつかってくる。明かりに惹かれたのだろう。
 やおら振り下ろした三十センチ定規に、まさかの「コツン」という軽い手ごたえがあった。蠅は畳の上にあおむけに転がり、そのまま動かなくなった。
 ――これくらいのことで死ぬようなやわな虫じゃない。しばらくしたらまたなに事もなかったように飛び回りはじめるに違いない。
 たまたま机の上にあった銀色の丸い頭のついたマチ針で、その仮死状態の蠅の腹を上から刺し貫いた。「プツン」という針が畳に刺さる小気味いい音と手ごたえがあった。蠅はあおむけになったまま昆虫標本のように畳に留められた。
 しばらくすると思っていた通り、蠅の仮死が解け、マチ針に刺されたまま畳の上で「ジッジ、ジッジ」と羽音をたてて必死にもがきはじめた。
 光輝は蠅をそのままにして外へ出た。

 街灯の明かりが彼のこころをとらえた。裸電球のオレンジ色の光が周りを包み込むように柔らかく照らしている。どの家も人が住んでいないのじゃないかと思わせるくらいに静まり返っている。この辺りの住人は高齢者が多い。寝るのも起きるのも人一倍早い。ひとりとり残されたような寂寥感が忍び寄ってくる。
 こんな時間にこの通りを歩いている者などひとりもいない。車も走ってこない。光輝ひとりが道路の真ん中をポトポト歩いている。
 大通りに出る。大通りもさして様子は変わらない。巨大なマッチ棒のような街路灯がポツンポツンと闇に浮かんでいる。
 背後から車が近づいてきた。彼はセンターラインから外れて道路わきに寄った。一台のタクシーがすぐ横を通り過ぎていく。ルームライトが消されていてなかは見えない。彼にはまるで無人の車が走っているように思えた。
 センターラインに戻る。両手を目の前にかざしてみる。青みがかった水銀灯の明かりのせいか、血の気が失せたように見える。手のひらを返してみた。甲の方も同じだった。
 青白い顔をしてひとりで歩いている自分の姿を想像し、そぞろに寒気が這い上がってくる。彼のなかに邪気が生まれた。いまの自分に似合いそうな奇案が浮かぶ。
 ――ここを素足で歩いたら……
 光輝はその思いつきに惹きつけられ、実行してみたくなった。
 両方のスニーカーを脱ぎ、裸足でアスファルトに直に触れた。汗ばんだ足裏にひんやりとした路面がとても心地いい。なんといっても解放感がすごい。
 直線道路の遠近感が冴え立っている。先の一点に向かって、センターライン、ガードレール、街路灯が収れんされている。いま自分もその線上にあると思うと、意識が遠のきそうになった。頭もからだも、そして周りのあらゆるものがすべてその一点に吸い込まれていくような錯覚を覚えた。 
 ……いつの間にか高速道路とクロスするM大橋の上を歩いていた。彼は立ち止まった。腰まであるその橋の欄干に寄りかかって、下を流れる川を、河口を、そして海岸を見やった。
 やにわに手に持っていたスニーカーを川に向かって投げた。月明かりに照らされた川面が音と共に波立つ。いずれのスニーカーも初めは流れに逆らっていたが、やがて河口へ向かってゆっくり運ばれていく。
 アスファルト道路を外れて川沿いの道へ降り、河口へ向かって歩きはじめた。撒かれている小石のせいで、土ふまずが傷んだ。……
 頭を上げると広々とした海がひらけていた。とうとう河口まで歩き通してきたのだ。はるか遠くの水平線へ眼をやると、白光に照らされた掠れ雲がゆるやかに流れている。風もなく、打ち寄せる波も穏やかだ。
 海原を前にしても、彼のこころを捕らえた幻想は薄れていなかった。逆にいや勝り、解き放たれていくように思われた。
 光輝はいつまでもその場にいてその幻想に浸っていたかった。

 アパートの外階段口に立ったとき、ガラス窓越しに大家夫婦の話し声が聞こえた。もう起きている。軋む階段を足を忍ばせて二階へ上がっていった。
 ほかの入居者の部屋からはなんの物音も聴こえてこない。共同流し場で足を洗って部屋に入った。出かけるとき開け放しておいた窓から夜風が入ってきて、まだ乾ききらぬ足の熱を奪っていった。
 なに事もなく、その日は過ぎ去っていった。ひとつ歳を重ねただけ。それでも光輝には今夜の深夜散歩で多くの発見があったような気がしていた。それがなんなのか自分でもよくわかっていなかったが。

 翌日の昼すぎ、彼が食事に出ようと部屋の扉を開けると、そこに見覚えのある履物がそろえて置かれていた。手に取るまでもなく、それが昨夜M大橋から自分が川に投げたスニーカーだとわかった。
 ――どうして、ここに?
 狐につままれたような感じがして、しばらくその場を動けなかった。
 絞れば水滴がしたたりそうなくらいにまだ湿っている。臭いを嗅いでみたが、異臭はなかった。
 光輝は怪訝に思いながらも、それを日の当たる外階段の手摺りにぶら下げておいた。

 その夜も彼は散歩に出かけた。昨夜のように川沿いの道へは降りずに、県境の方まで足を伸ばしてみることにした。
 高速道路の下を並走する国道の途中で、通りに煌々と明りを漏らしている店を発見した。近隣の店はみなシャッターを降ろして寝静まっている。
 ――こんな深夜にやってる店があるんだ……。
 怪訝に思いながら近づいていくと、その店が食堂だとわかった。「ぜん飯や」というのれんが掛けてある。彼は好奇心からその店の引き戸を開けてなかに入った。
 客はいなかった。調理場に割烹着姿の痩せた白髪交じりの女性がひとりせわしげに立ち働いている。
 壁に貼られたメニュー書きのほとんどが定食類ばかりだった。壁際の席に着き、メニュー書きを目でたどりながら迷った。夕方にがっつり食べていたので腹はすいていなかった。
 冷やかしだと思われたくなかった。彼はメニュー書きの一番最後に書かれているラーメンを頼んだ。
「初のお客さんかな?」
「ええ、初めてです。こんな時間に開けてるんですね」
「夜しか営業してないんですよ。夜の十時から翌朝の六時まで」
「客がいるんですか?」
「店はこんなんだけど、常連さんがいるのよ。ありがたいことに」
「営業が深夜というのはどうなんですか?」
 光輝はそう言ってしまってから、あまりにも失礼な物言いだと気づいてつけ足した。
「すいません、こんな質問して」
「ううん、初のお客さんはみんな必ずそう訊いてくる。暇そうに見えんだろ? ところがどっこいでね。店に入りきらずに外で待っててもらう日だってあるんだよ」
 光輝は想像できなくて、そう広くない店のなかを見回した。
「うちは混む時間と暇な時間がはっきりしてて」
「そうなんですね」
「お兄ちゃんは何してる人なの?」
「いまはなにもしてません」
「そうなの?」
 キャベツを刻む手を止め、彼の方を見た。
「仕事探してるとこで」
「じゃあ、うちで働いてみる?」
 彼女は身内の者と話してるような軽いノリで誘ってきた。
「ええっ、マジで言ってます?」
「冗談じゃないわよ、マジ」
「俺、調理なんてできませんよ」
「なにもすぐ作ってくれなんて言わないわよ。できたらいいけど」
「じゃあ、なにを……」
「調理以外にやることはいっぱいある。開店前と閉店後の掃除だろ。調理器具の清掃。配膳、膳下げ。皿やどんぶりなんかの洗い仕事。……買い出しや仕込み。まあ、すぐに全部というのは無理だろうけど」
 時給はそこそこだったが、賄いつきというのは魅力的だった。
「じゃあ、決まりね」
 話の展開は早く、なんとその夜から試しに働いてみることになった。
「うちの名物はね、ホルモン定食に煮込み定食。食べてみるかい?」
「いえいまはちょっと……」
 夜食には重すぎる。というより今夜の今夜からだと、さすがに受けつけない。
 最初の睡魔が襲いかかってきた時刻に、彼はこの店に抱いていたイメーシをひっくり返される状況をまざまざと見せつけられた。深夜に作業している人がこれほどいるとは想像もしていなかった。狭い店内が社員食堂なみの混み具合になった。
「おばちゃん、こっち煮込み定食三つ」
「あいよ」
「こっち、ふた丁」
「あいよ」
「あのー、兄ちゃん、こっちまだ水きてないよ」
「すいません」
「今日から手伝ってくれることになったばっかりなんだから、こき使ったら承知しないよ」
「こき使うのは、おばちゃんの方やろ」
「バカ言ってんじゃないよ。はい、煮込み定食」
 ………………………。
 瞬く間に冗談のようなひと時が過ぎる。店は再び二人だけになる。
「ウソでしょ。……いつもこんな感じなんすか? 深夜なのに」
「まだ少ない方だよ、今夜は」
「これ以上の日があるんですか?」
「逃げ出したくなったかい?」
「じゃなくて、逆に好奇心をかき立たされちゃいます」
「うまいこと言うね、お兄ちゃん」
 …………………
「今日が初めてだから疲れたでしょ? ちょっと早いけどもう上がってもいいわよ」
 東の空がほんのり明るくなり始めた頃、店主にそう言われて救われたような気持ちがした。店主に指摘されたとおりだった。慣れない仕事でさすがに疲れていた。先月契約切りになった大手家電メーカーの期間工時代に、まれにシフトされる徹夜作業明けに近い疲労感がある。
「今晩もお願いね。調理服準備しとくから」
 店主に笑顔で見送られて、「ぜん飯や」を出た。
 幾重にも重なった薄墨色の山々の背後に、見事な朝焼けのグラデーションができていた。

 アパートに着いてすぐに驚かされた。昨日と同じように、彼の部屋の前の同じ所に、同じスニーカーがきちんとそろえて置かれていたからだ。
 ――いったいなんなんだよ?
 日当たりのいい外階段の手すりにぶら下げて置いたおかげで、すっかり乾いていた。手に取ろうとしたところ、なかにふたつ折りの白い紙が押し込まれていた。
「物を粗末にするんじゃない。丸茂」
 大家の名前が書き添えてあった。
 訳がわからないまま、考えるのも面倒くさくなり、敷きっぱなしの布団に倒れ込むように横になるとあっという間に眠りに落ちた。

 昼過ぎ、ドアをなんども叩く音で目が覚めた。ドアを開けると、大家の丸茂のお婆ちゃんが立っていた。
「まだ寝てたの? これ、お爺ちゃんが釣ってきたセイゴだけど、お裾分け。お腹は出してあるから、このまま塩を振ってグリルで焼くだけ」
 差し出された新聞紙に包まれたものをなにも考えずに受け取る。開くと型のそろったセイゴが二尾入っていた。
 漁村で育った光輝にはそれが高値で取り引きされるヒラスズキだとすぐにわかった。
「鮮度がいいから、お刺身でもいけるわよ」
「釣りにはよく行かれるんですか?」
「ええ、それはもう憑りつかれたみたいに。秋口は毎晩」
「お元気そうですもんね」
「でもね、昨晩からご機嫌ななめで、いつまでもぶつぶつなにか言ってるのよ。ついにボケがはじまったんかな、と。でもよくよく話を聴いてみると、お爺ちゃんが釣りをしてるところにいきなり真上から靴を放り込む人がいたんですって。腰を抜かすほどびっくりしたんですって。そりゃそうよね、真夜中にそんなことが起ころうなんて誰も思わないもの」
 ――そういうことか。
 光輝は申し訳ないと思う気持ちより先に可笑しさの方が勝ってしまい、声を出して笑った。
「なに考えてるのかしらね」
「……もう二度と起こらないと思いますよ」
「そう願いたいわよね。年寄りを腰抜かすほど驚かしちゃいけないわよ」
 時計を見た。もう銭湯が開いている時間だった。
「すいません。これから風呂行くんで」
「あら、そう」
 大家はまだ話したりない感じだった。
「これいただきます。ありがとうございました」

 風呂上がりでさっぱりした心地よい心持ちで帰宅し、販売機で買ってきた缶コーヒーを飲みながらからだのほてりを冷ましていると、ふと彼の眼に畳にマチ針で刺し留められた蠅が映った。すっかり忘れていた。
 蠅はもう羽音を立てていなかった。すでに死んでいた。干からびたせいか小さくなっている。蠅の亡骸を見つめていると、飛び回っていたときの羽音が聴こえてくるようだった。
 光輝はそのとき梶井基次郎の掌編小説『冬の蠅』を思い出した。
 梶井基次郎は彼が初めて好きになった作家で、遺作掌編小説全二十作品を収めた文庫本『檸檬』は愛読書だった。これまでに本の背がふにゃふにゃになるくらいになんども読み返している。
 光輝の深夜散歩へのこだわりは、梶井基次郎の作品の影響が少なくないかもしれない。
『冬の蠅』は、病(肺病)を抱えた主人公がきまぐれに数日部屋を空けたことで衰えた蠅の生存条件を奪い、死に至らしめたように、主人公の「私」を生かしている生存条件もまたなにかの気まぐれで奪い去られてしまうのではと思いおよび、これからの陰鬱な生活(闘病)を予感する――大筋そういう話の小説だ。
 もう一度銀色のマチ針に刺し止められている蠅を見直した。蠅は針を六本の足でしっかり抱きしめて固くなっていた。光輝は梶井基次郎と違って病魔におかされていないからなのか、梶井ほど蠅の死をセンシティブに捉えていなかった。
 ――自分を生かしている生存条件を奪うもの……
 彼は蠅だけを捨てようとしたが、思い直して銀色のマチ針をつけたまま捨てることにした。よく見ると銀色に輝くそのマチ針の頭の部分は本物の真珠のような光沢を放っていた。
 光輝はそのマチ針が本物の真珠のマチ針だと思い込むことで、動かなくなった蠅を闇のなかへ葬ることができそうだった。

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