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小説「生きている人魚」④

 大学三年の夏休みだった。僕と坂田は例によって旅に出かけ、福井県まで足を伸ばしていた。
「こんな風にのんきに旅行できるのも今年までやなぁ」
 海辺に近い田舎町をぶらぶら歩き回りながら、坂田がため息をついた。
「来年になったら、卒論、就活やで。想像しただけでいやんなるわ」
「坂田は就職に決めてるんか。俺、実はちょっと迷っててな。大学院に行ってみたい気もあって」
「あぁ、ええんとちゃう? ナカは意外と教授に気に入られてるもんな」
「意外と、は余計や」
 ふと、ある寺の門前で足が止まった。大きく門が開け放たれ、小学生の男の子たちが木陰でカードゲームをやってはしゃいでいる。通りすがりのよそ者でも気軽に入れそうな雰囲気だった。
「ちょっと休憩させてもらおか、ばててきたわ」
 本堂の軒下で日差しをさけつつペットボトルの水を飲んでいると、作務衣を着た住職が顔をのぞかせた。「すみません、休ませてもらってます」と頭を下げると、
「そんなとこじゃ暑いだろう、中に入りなさい」
 そう言って、笑顔で招き入れてくれた。
 五十がらみの住職は気さくな人で、ひんやりした本堂の床にじかにあぐらをかいてバタバタとうちわを使いながら、「お盆を過ぎたら急にヒマになってなあ」などと言っている。奥さんが冷えた麦茶まで出してくれて、しばらくよもやま話をした。
 どこから来たのか尋ねられ、「京都の**大学の民俗学研究室の者でして、地域に伝わる昔話や伝説などを集めて研究しているんです」と、坂田がもっともらしく答えた。
「そうか、それは惜しいことをした。先代が生きておったら、ここいらの昔の話をよう知っとったんだが」
 住職は自分のことのように残念がってくれた。
 住職自身は寺を継ぐために養子に入ってよその土地から移ってきたそうで、昔のことはよく知らないのだという。「夏休みなのに研究旅行をしているまじめな学生さん」である僕たちを、何もなしで帰すのは気の毒だ、としばらく頭をひねっていたが、
「そうだ、ちょっと面白い物がある」
 手を打って、寺の奥へ消えていった。本当はさほどまじめでもない僕たちは、少々申し訳ない気がした。
 だが、「こんな物で良かったら、見てくれんか」と住職が持ち出してきた古い木箱の中には、まさに僕たちのツボにぴたりとはまる代物が収まっていた。箱の上蓋には黄ばんだ紙が貼られており、そこには墨で「人魚のみいら」と記されていたのだ。
 住職がゆっくりと蓋を持ち上げる。
「うわ、すごい」
 思わず二人とも歓声を上げ、身を乗り出してしまった。
 箱の中には黄ばんだ布が敷き詰められており、干からびたソレはその上に鎮座していた。体長は六十センチほどだろうか。人間の赤ん坊よりも一回り小さな醜怪な頭部のすぐ下に、魚の体がくっついていた。胸びれや尾びれもちゃんと付いている。サルと魚の死体をつなぎ合わせてこういう代物を作るという話は聞いたことがあったが、実際に目にするのは初めてだった。
「昔は、こういう物をお祭りの時に香具師(やし)が見世物にしていたらしい。暗いところだと、もう少しそれらしく見えるからな」
 おそらく明治か大正時代の物だろう、と住職は言ったが、なぜこんな物が寺の蔵に入っているのかはわからないそうだ。
「旅回りの芸人が廃業する時にでも、寺で供養してほしいと置いていったんでしょうか?」
「そうかもしれんな。かわいそうに、供養もせずにほったらかしだがな」
人の良さそうな住職はそう言って豪快に笑った。
 僕らは思いがけずめずらしい物を見せてもらって興奮し、あれやこれやとこの「人魚のみいら」の来歴について勝手な想像をしゃべり合った。
 そして最後に、僕は思わずこう言った。
「ミイラもええけど、こうなったら生きている人魚を見てみたいなぁ」
 すると坂田も、大きくうなずく。
「ほんまやなぁ、いつか二人で見られるとええなぁ」
 そう言って、彼は笑っていた。

「――お客さん、着きましたよ」
 声をかけられ、はっとした。気付けばタクシーは停まっていた。外はいよいよ雨足が強くなっている。
「ひどい天気になっちゃいましたね」
 運転手は気の毒そうに言った。料金を払い、礼を言って降りようとしたら、「あの」と、ためらいがちに声をかけてくる。何だろうと見返すと、ちょっとあらたまった表情になった。
「今、思ったんですけど、こちらのお宅、もしかしたらもう誰も住んでないかもしれないですよ」
「え? でもさっき、ご主人が一人で自宅に、って……」
「ええ、そうなんですけど。実はね、ちょっと思い出したことがあって」
 あやふやな話で申し訳ないけど、と前置きしてから彼は言った。
「僕やなくて同僚なんですけどね。二週間くらい前かな。雨の夜、この近くで年配の男の人を乗せて駅まで行ったそうなんです。その人、帽子かぶって大きな旅行鞄を持ってて。ご旅行ですかって聞いたら、いや、二度と戻らない、やっと逃げ出せるんや……って変なこと言ってたらしいんですよ。まるで夜逃げやったって」
「その人が、高橋さんだったと?」
「はっきりそうだというわけじゃないんですけど。今ふと思い出したら、何となくそんな気がして」
 だが、たとえ高橋家の当主はおらずとも、坂田は「ここにいる」と電話をしてきたのだ。確かめてみなくてはならない。
「とりあえず、行ってみるよ」
「そうですか……あ、良かったら、お帰りの時も呼んでくださいね」
 運転手は気遣うような顔をしながらそう言って、タクシー会社の電話番号が記されたカードをくれた。
 ズボンのポケットにそれを突っ込み、車を降りた。折り畳み傘を差している間に、タクシーはゆっくり走り去っていった。
 想像していたよりも立派な門構えの屋敷だった。
 僕が立っているのは、田んぼの真ん中を突っ切る、車一台通れるほどの細い道だ。目の前に高橋家が建っており、その背後には鬱蒼とした暗い林が広がっている。タクシーが去った方向には、民家が何軒か、身を寄せ合うように立ち並んでいるのが遠くに見えた。この一軒だけ集落からかなり離れているようだ。周辺の田は荒れ果て、何年も耕作されていない風だった。
 門は屋根付きの立派な物で、その両開きの扉は堅く閉じられていた。柱に木目の表札がかけられていて「高橋」と見事な筆跡で記されているが、墨の色は大分褪せている。門の左右には背の高い生垣が手入れもされず伸び放題になっていて、中の様子はうかがい知れない。
(ここに、坂田がいるのか)
 呼び鈴やインターホンは見当たらない。門扉を叩いてみようとして、少しためらった。
 早く入らなくては、と思いながら、しかし気が進まない。タクシーの中で聞かされた、「人魚長者」高橋家にまつわる暗い話、それが頭にこびりついていた。
 いったん扉から手を離し、意味もなく、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。圏外と表示されている。街中からそんなに離れているわけでもないのにな、と思いながら、電池の消耗を避けるために電源を切った。
 あの運転手は「お帰りの時も」と言ってくれたが、これでは携帯電話で呼ぶこともできない。
 ふっと、頭の中に「もう帰れない」という言葉が脈絡もなく浮かんだ。まさかそんな、と慌てて打ち消す。電波の届く場所まで歩く面倒がかかるだけの話だ。民家の見えるほうへちょっと行けばすぐに電波は復活するだろう、と自分に言い聞かせる。
 雨は激しく降り続けている。こんな日の田舎道には誰も歩いていない。
 実家の近くも昔はこんな感じだったな、と保育園の帰り道を思い出した。雨の降る日はレインコートを着せられて、それでも濡れてしまうから祖母の傘に半分だけ体を入れさせてもらったものだ。
 だが今は、こんなところへ僕を迎えに来てくれる人は誰もいない。むしろ僕が坂田を迎えに来たとも言える。しかし坂田は、保育園の頃の僕のように、おとなしく一緒に帰ってくれるだろうか……。
「すみません、こんにちは」
 いつまでも逡巡しているわけにもいかないので、門扉を叩きながら声をかけてみた。
「こんにちは、どなたかいらっしゃいませんか」
 だが、僕の声は雨の中に消えるばかりで何の反応もない。とうとう思い切って扉を押してみる。ぎ、ぎ、と耳障りな音できしみながら、重たい扉はゆっくりと開いた。
 開いたその向こうを見て、ぎょっとした。
 門の内側は荒れ果てていた。かつては見事な庭園だったのかもしれない。だが今では、樹木は好き勝手に枝を伸ばして葉を茂らせ、足元には雑草が生い茂っている。母屋の玄関へ続く踏み石があるようだが、それも草に隠れて見えづらい。遠目に見える玄関の引き戸は、半分壊れて外れていた。
 財産も家族も失った男が一人で細々と暮らしているという話だったから、小綺麗な家を想像していたわけではないが、予想外の荒廃ぶりに足がすくんでしまった。これでは、まるで廃墟だ。蛙の鳴く声が時折遠くから聞こえるだけで、人の気配は全く感じられない。
 二週間前の雨の夜、と今しがた聞いた話を思い出す。帽子を目深にかぶり、旅行鞄を抱えてこの荒れ果てた家を、草を踏み分けて逃げるように出てゆく男。見てもいないはずのその姿が、なぜかまざまざと思い浮かんだ。
 もう、この家には誰もいないのだ。僕を待っている友人のほかは、誰も。
「――坂田」
 たまらなくなって、声に出して呼んでみた。
「坂田、俺やで。来たぞ」
 ――ナカ、こっちや。早く来い。
 そんな声が聞こえはしないかと淡く期待して待ったが、雨の音が続くばかりだ。僕は思い切って、しとどに濡れた草の中に足を踏み入れた。
 洞窟のような暗闇がのぞく玄関に辿りつく。軒下で傘をたたみながら、もう一度呼びかけてみた。
「坂田、おらんのか?」
 その時ふと、雨音に混じって、別の水音がかすかに聞こえた気がした。
 ぱちゃり……ぱちゃり……と、まるで大きな魚が、水の中ではねているような。
「……入るで」
 坂田へとも、自分へともつかずそう言って、暗い玄関の中へ一歩、足を進めた。埃っぽいにおいと同時に、かすかに線香のにおいが漂ってきた。僕にとって線香は心安らぐにおいだ。それで少し気を強くもって、さらにもう一歩、足を進めた。
 広い玄関だった。三和土(たたき)の隅の方に、古い男物の革靴や下駄、骨の折れた傘が転がっている。
 暗闇に少し目が慣れてきた。玄関先には立派な式台もついており、上がり框を上がってすぐのところに一枚物の屏風が立ててある。目をこらすと、季節外れの梅の花が描かれていた。
 折り畳み傘を壁に立てかけて置いた。それから靴を脱ぎかけたが、ふと思い直して式台に指を触れてみると、ざらっとした感触の土埃がくっついてきた。とても靴を脱いでは上がれそうにない汚れ具合だ。少し気が咎めたが、土足のままで上がった。つい最近までこの家の主人が住んでいたはずだが、いったいどんな暮らしぶりだったのか。
 そばに寄ってみると、立派に見えた屏風もやはり古びて薄汚れていた。屏風の後ろに回ると、板張りの広い廊下が左右に伸びており、襖が並んでいる。目の前にある襖の一枚は、誰かに蹴り飛ばされたかのように外れて、中の畳の上に倒れていた。
 その襖を避けながら、座敷に入った。足元の感触が、柔らかい畳のそれに変わった。暗くてはっきり見えないが、大きな座卓が中央にあり、隅には座布団が乱雑に積まれている。客間として使われていた部屋だろうか。
 右にも左にも襖があって、それぞれ隣の座敷へ続いているようだ。いかにも田舎の旧家らしい造りだ。法事や祝い事で大勢の人間が集まっても困らないよう、襖を取り払っていくつもの座敷を一続きにすれば大広間になるようにしてある。この家のかつての繁栄ぶりを想像すると、この荒廃した様相はあまりに物悲しく感じられた。
 ぱちゃり……という水音は、左の方から聞こえてくるようだった。
「坂田。おるんか?」
 そう声に出しながら、左手の座敷に続く襖を開ける。
 そこも同じくらいの広さの、薄暗い座敷だった。座布団や数冊の本などが転がっているだけで、めぼしいものは見当たらない。
 さらに奥へと続く襖が見えた。そちらから、ぱちゃり……と、また音がした。
「坂田、そっちか……?」
 襖に手をかける。立て付けが悪くなっているのか、上手く動かない。ぐっと力を入れると少しだけ開いた。線香のにおいがいっそう強くなった。仏間かもしれない。
「開けるで……」
 つぶやきながら、両手を使って、ぐっ、ぐっ、と何段階かに分けて力を込めてゆき、やっと一人通れるくらいの隙間を開けた。
 その座敷はほかの室内と比べて、ぼんやりと明るかった。先ほどまで途切れ途切れに聞こえていた、ぱちゃり……ぱちゃり……という水音は、襖を開けた途端、なぜか聞こえなくなっていた。
 室内を見回してみる。やはりここは仏間だったようで、右手に床の間、仏壇、押入れと順に並んでいる。
 歩み入って、床の間の前に立つ。
 床の間には掛け軸がかかっていた。運転手の話によれば、彼の祖母が幼い頃に見た時には人魚の墨絵がかかっていたということだったが、今あるのは違う絵のようだ。やはり墨絵ではあるが、川か池か、水面を描いているらしい絵だった。魚でも泳いでいれば格好がつきそうだが、何も見当たらない。絵心などない僕から見ても、妙な風景だった。
(こんな絵を、なぜ大事そうにかけておくのかな……)
 隣にある仏壇は大きくて立派なものだったが、開け放たれた観音開きの扉の中は空っぽだった。夜逃げのように出て行った当主が、先祖の位牌はさすがに捨て置けず持っていった、というところだろうか。仏壇の前の経机にはなぜか線香の束がむきだしで山積みになっていて、そこからにおいが漂ってくる。
 正面には紙が破れ果てた障子戸があって、その向こうは広縁だった。雨戸が外れてガラス戸がむき出しになっている掃き出し窓が見て取れた。そこから外の光が差し込んでおり、それでこの部屋はほのかに明るいのだった。
 しかし。この部屋にも、誰もいない。坂田はいったいどこにいるのだろう。まさかもう、この家にはいないのだろうか。どこか遠く、僕の手の届かないところへ去ってしまったのか……。
(ともかく、ほかの部屋も探してみよう)
 覚束ない気持ちになりながらも、きびすを返しかけた。その時、仏壇の前の経机、その下に何か白っぽいものが落ちているのが目に入った。
 ノートだった。僕はしゃがみこみ、手に取った。まだ新しい、どこででも売っているような普通の大学ノートだ。
 表紙を見て、はっとした。
 「人魚考」と書かれている。習字のお手本のように端正なその字は、坂田のものだった。
 表紙をめくると、最初のページからみっちりと鉛筆で書き込まれている。これも坂田の筆跡だ。学生時代はしょっちゅうノートの貸し借りをしていたのだ、見間違うはずがない。大雑把な性格にしか見えないのに、ノートの字は神経質なくらい線と線の間にきっちり収まって、一文字一文字丁寧に書かれていた。何もかも昔と同じだ。
 室内が暗くて読みづらいが、最初は「○月○日 骨董品店にて聞いた話をまとめる。京都の……」という文章で始まり、日誌のように何日にもわたって書き綴ってある。
(あいつ……本気でもう一度、民俗学の研究をしようと思っていたのかな)
 学生時代のレポートのように、時折、「参考文献は下記の通り」「**氏の論文によると」「ここまでのまとめ」といった表現が見られる。
 その場にしゃがみ込んだまま、ぺら、ぺら、とめくっていく。すると次第に字が乱れてきて、僕は眉をひそめた。しまいには殴り書きに近くなり、線をはみ出したり、やたら字が大きくなっている。しかも水に濡れたのか、ところどころにじんでしまっている。
 大きく書かれた文字のいくつかが、目に飛び込んできた。
 「人魚は本当に」……
 「寄生」「代々の子供たち」……
 「絵」「出てくる」「封印」……
 「裏切り」「逃げられない」「身代わりが」……
 何のことか、さっぱりわからない。しかしだんだんと尋常でなくなっていく坂田の精神状態がそこに表れている気がして、目が離せなかった。とにかく最後まで、見るだけ見てみることにした。
 ぺら、とあるページをめくって、手が止まった。書かれた文章が、中途で途切れている。その文章はすでに字が乱れ過ぎて、何が書かれているのか判読できなかった。
 が、そのページの余白を見開きいっぱい使って大きな字で書かれた内容は、はっきり読み取れた。
「ナカ かえれ にげろ」
 まるで子供の書いたような、荒っぽい文字。かなり力を込めて書いたのだろう、鉛筆の色がひどく濃い。
 ……なんだろう、これは。
 背筋にうすら寒いものを感じた。
 かえれ? にげろ? 
 ここまで来いと呼び出しておきながら、「帰れ」とは。そして、何から「逃げろ」と言っているのか――。
 思わず周囲を見回すが、逃げ出さなくてはならないような危険な何かは、どこにも見受けられない。薄暗い、荒れ果てた座敷が広がっているだけだ。外の雨音だけが絶え間なく続いている。
 わけがわからないながらも、落ち着かない気分になってきた。ひとまず引き返した方がいい気がする。ノートをしまおうとデイパックを肩から下ろした。
 デイパックを開けた拍子に、中から『遠野物語』が飛び出してしまった。拾って埃をはたいていると、ふと仏壇の隣の押入れが目に入り、気になった。
 開けっ放しになっている仏壇とは対照的に、押入れの襖はぴっちりと閉じられている。そう思っていたのだが、よく見ると、ほんのわずかだけ隙間が空いていた。
 その隙間が、妙に気になる。僕はノートと本をデイパックに突っ込み、その場に置くと、押入れの前に立った。 
 襖に手をかける。一息に、がらっと開けた。
 ごろり、と足元に何かが転がり出てきた。反射的に一歩飛び下がり、転がり出てきた「それ」を見て、ああっ、と思わず声を上げた。
(坂田――!)
 ひどくやつれて、髪も髭も伸びてぼさぼさになっていたが、間違いなく坂田だった。僕の探していた友人が、そこに力なく横たわっている。
 上半身だけ転がり出てきて、腰から下はまだ押入れの中に入ったままだ。両目を閉じて、口は半開きになっている。無理やり陸地に引き揚げられて息絶えてしまった人魚のようだった。

(⑤につづく)

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