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小説「生きている人魚」③

 昔を思い出しているうち、いつしかまどろんでしまっていたらしい。目を開けた時には、車窓を雨が叩いていた。
 窓の外には青々とした田んぼが広がり、そのはるか向こうにはかすかに琵琶湖の湖面が望まれた。次に停まった駅の名前を確認すると、目指す駅はあと二駅先に迫っていた。僕は『遠野物語』をデイパックにしまった。
 やがて電車は、目的の駅に着いた。その頃にはもう、車内はがらがらだった。
 デイパックを肩にひっかけ、下車する。降りたのはほんの数人だけで、みな地元の人間らしく足早に改札の向こうへ消えていった。
 僕も遅れて改札を通り抜け、ふと足を止めた。
 改札口の横にキオスクがある。乗降客の少ない時間帯は閉店しているのか、シャッターは降りている。僕が目を留めたのは、その隣のスペースだった。
「ふれあい文庫」という手作りの看板が壁に架けられている。その下に小学校の図書室にあるような背の低い本棚が二つ並んでおり、隣にはベンチも一つ置かれていた。看板の横に貼られたポスターによると、地域のボランティア団体が設置しているコーナーのようだ。「どなたでもご自由にお読みください・気に入った本はお持ち帰りください・いらなくなった本をご寄贈ください」と書かれている。
 僕も本好きだからつい立ち止まってしまったのだが、田舎の駅らしいのどかさ、というべきか。本が乱暴に扱われたり、持っていかれるばかりで空になったりしないのか、などと余計な心配をしてしまうが、本棚はきちんと整理されており、いかにも古本といった汚い感じはしない。並んでいるのは文庫本、単行本、絵本、漫画と種々雑多だ。そのうちの一冊の背表紙に、目が吸い寄せられた。
 「湖北のむかしばなし」と書かれている。昔話、という言葉だけで惹きつけられてしまう性分は相変わらずだ。僕は半ば自動的にその本を抜き出していた。
 坂田が待っているのにのんびりしている場合か、という思いがよぎる。が、ほんの少しだけ、と自分に言い訳し、ベンチに腰を下ろした。
 A4サイズで、それほど分厚い本ではない。表紙は琵琶湖に浮かぶ小舟を素朴なタッチで描いた淡彩画で飾られている。「滋賀の文化伝統を守り伝える会・編」とあり、全体に手作り感が漂っていた。少部数しか刷られていない私家版かもしれない。こういう本にこそめずらしい話が載ってたりするんだよな、と、つい心が弾んでしまう。
 ぱら、と表紙をめくると目次のページだ。いくつもの昔話の題名が並んでいる。そのうちの一つが目に飛び込んできた。
 「人魚長者のはなし」。
 僕は急いでそのページを開いた。そこにはこんな話が書かれていた。
 ――昔、ある村に、兄と弟がいた。二人は親から受け継いだ田畑を半分ずつに分けて暮らしていたが、兄は酒を飲んだり博打を打ったりして借金を作り、自分の田畑を売り払ってしまった。弟はまじめに働いていたが、兄に自分の田畑を横取りされ、家から追い出されてしまった。
 弟が「これからどうしたものか」と泣きながら琵琶湖のほとりをさまよっていたところ、浜辺に人魚が打ち上げられていた。弟は「かわいそうに、湖に戻してやろう」と水の中に入れてやろうとした。
 ところが人魚は「お優しい方、どうかあなたの家に連れていってください」と言う。人魚は湖の主である龍神の怒りを買ってしまったので、もう湖には帰れないのだそうだ。「あなたの家で面倒を見てくださるなら、子々孫々にいたるまで富貴と繁栄をお約束しましょう」と言った。
 弟が人魚を連れて帰ると、兄は「人魚の肉は不老長寿の妙薬だ。殺して肉を売れば大もうけできる」と人魚を殺そうと企んだが、人魚の神通力で足腰が萎え、寝たきりの病人になってしまった。
 その後、弟には幸運が続き、やがてその近在で一番の長者になった。嫁を迎え、たくさんの子供にも恵まれ、病気になってしまった兄の面倒もちゃんと見てやった。いつしか人はその家を「人魚長者」と呼ぶようになった。その家には今も人魚が棲んでおり、守り神として大切にされているという――。
 これは「人魚を守り神としてまつっている家」、高橋家のことなのだろうか。本には何も説明は書かれていないが、その可能性は高そうだ。
 意地汚い兄と優しい弟。超自然の存在に悪事を働こうとした兄はその報いを受け、親切を施した弟は幸運に恵まれる。昔話の典型的なパターンの一つだ。だが、人魚が幸運をもたらす役割をする話はめずらしい。さらに、その後も家の守り神として崇められている、という話は例がない気がする。幸運をもたらす超自然の存在は、「まれびと」(客人)として異郷から現われ、役割を果たすとまた異郷へと戻っていく、というパターンが多いのだ。
 じっくりこの話の意味を考えてみたいところだが、今は坂田のことが優先だ。僕は少し未練を感じつつも立ち上がり、「湖北のむかしばなし」を本棚に戻した。
 駅舎の外に出ると、細かい、霧のような雨が降っていた。
 がらんとした駅前だった。狭いバスロータリーとタクシー乗り場があって、その先に、遠目からでもわかるくらいにさびれた商店街が続いていた。
 バス停の標識を見やると、時刻表には一時間に一本程度の本数しか記されていない。横には雨ざらしのベンチが人待ち顔にたたずんでいる。当てにしていたタクシー乗り場には、車が一台も見えない。デイパックから折り畳み傘を取り出して差し、あたりをぶらついてみた。
 このデイパックも折り畳み傘も、学生時代からずっと使っている、年季が入った代物だ。こんなものを持ってこんな田舎の駅前に立っていると、まるで昔に戻ったような錯覚に襲われてしまう。振り向いたらリュックサックを背負った坂田が立っていて、
 ――なあ、ナカ、ここからどこ行く?
と、朗らかな口調で話しかけてくるような気がする。
 ぱらぱらと傘を打つ雨音を聞きながらしばらく歩いてみたが、タクシーはやってきそうにない。そばに電話ボックスが一つある。タクシー会社の番号を調べようと思って中へ入ったが、タウンページが見当たらない。近頃は公衆電話にそういうものを置かないのだろうか? いまだにスマートフォンを持っていない身としては、こうなるとお手上げだ。軽くため息をついて、電話ボックスの扉にもたれた。
 昨日の昼、坂田はおそらくここから電話をかけてきたのだろう。その姿を想像してみたが、僕の頭に浮かぶのは、やはり学生時代の坂田ばかりだ。
  ――もしかしたら僕は、過去へ戻りたがっているのだろうか。
 ふと、そんな思いがかすめる。ただ心のおもむくままに二人で旅をしていたあの頃に、もし戻れるものなら戻りたい、などと。
 今の生活に、自分が大した執着を感じていないのは確かだった。仕事に関してだって、職場の居心地は悪くはないが、目の前の業務を淡々とこなしているだけだ。
 ただ、今の会社に勤めようと決めた時のことは、はっきりと覚えている。
 会社を案内されていて、ここがデザイン室、と言われて入った瞬間、商品の材料となる、色とりどりのあでやかな、昔の着物を思わせる布地がずらりと並んでいるのが目に飛び込んできた。それで心を決めてしまった。
 紹介してくれた先輩も、社長自身ですらも「ほんまにええのか」と何度も念を押してきた。「ええ大学を出た人に働いてもらうような大層な会社やないんやけどなあ」と、社長はむしろ少し困っているようだった。事務を担当していた社長の娘さんが結婚して辞めることになり、その後任を探していた社長としては、簿記関係の専門学校を出た女の子か経理経験のある主婦の人にでも来てもらえたら、という考えだったらしい。四年制大学卒ではあるが、経済学部や商学部にいたわけでもなく畑違いの文学部で勉強していた僕に来てもらっても、正直、使いづらいし、使い物になるのかどうか……というのが本音だったのだろう。
 だが僕としては、ぜひこの会社で働きたい、という気持ちになっていた。朱色、藤色、蘇芳に浅葱、絣模様に千鳥格子、花鳥文様――デザイン室にあふれる、美しくレトロな布地の数々に魅せられていた。それは遠い昔、祖母から昔話を聞いていた時のような、あるいは坂田と二人、田舎の村や林や山の中を目的もなくうろつき回っていた時のような……何とも言えない、懐かしい感覚を呼び起こしてくれたのだった。
 もっとも、入社後は事務仕事ばかりで、それらの布地を実際に目にする機会はあまりなかった。初めてデザイン室に入った時のあの切なく懐かしい感覚も、今ではその鮮やかさは失われてしまっている。かすかなその名残だけを頼りに、さしたる情熱もないまま僕は働き続けている。
 私生活はといえば親しい友人も恋人もなく、休みの日には本を読むか映画を観に行くくらいしか楽しみがない。実家の家族とも疎遠になってしまっている。
 何のために生きているのか、と悲観的に考え込むほどではないが、もしもふいにこの人生が終わりを迎えることになったとしても、僕はおそらくその運命に逆らわない。死にたくない、と執着するほどのものは何一つ持っていない。
 突然かかってきた電話一本で僕がこんなところまでやってきたのは、大事な旧友を心配したから、というだけではなく、自分自身が、ふいっと日常のレールを踏み外してみたくなった。そういうことなのかもしれない。
 そして踏み外したレールの先に、坂田とともに過ごしたあの頃のような、目の前がどこまでも開けてまぶしかった日々が再びよみがえりはしないか、などと望んでしまってはいないか……?
 電話ボックスを、細かい雨が濡らしている。僕はガラスの向こうの暗い空を見上げて、ため息をついた。
 いったい、何を考えているのだろう。これから高橋家へ向かい、そこで首尾良く坂田と出会えたとしても、そこから二人で旅に出る、なんてことはありえない。
 おそらく僕は、奥さんに連絡をとり、坂田が無事に家族のもとへ帰れるように骨を折ってやるだろう。東京まで付き添っていく必要があるかもしれない。そして彼が彼自身の日常へ戻るのを見届けたら、僕は僕自身の日常へ戻る。ただ、それだけのことだ。
 電話ボックスを出る。ロータリーをぐるりと回り、商店街の方へ足を伸ばしてみた。
 商店街は、雨のそぼ降る平日の日中、悲しいくらい人通りがない。シャッターを閉めている店も多い。だが、ロータリー寄りの場所にある小さなタバコ店の前に差しかかると、自動販売機の横の小さな窓口からひょいと中年の女性が顔を出した。
「おにいちゃん、もしかして、タクシー待ってるのと違う?」
 戸惑いつつもうなずくと、
「待ってても来(き)いひんよ。ちょっと待っとき、今、呼んだげるから」
 彼女はそう言って、僕の返事も待たずに電話の受話器を取り、車一台頼むわ、と気安い調子でしゃべっている。中は普通の和室で、テレビの音がかすかに聞こえてきた。
 ともあれ助かった。お礼代わりにタバコを一箱買おうとしたが、顔の前で手を振った。
「ええよ、気を使わなくても。あんた吸わへんのやろ」
 どうしてわかるのか不思議がると、「まあ、何となくわかるもんよ」と笑っている。
 タクシーが来るまで、彼女とおしゃべりをした。タバコなんて値上げされるたびに売り上げが落ちてもう商売上がったりだとか、商店街で買い物するのは年寄りだけで、若い人は車で大きなショッピングモールへ行ってしまうからどんどん店がつぶれるとか、不景気な話を景気良く笑い飛ばしながら話してくれる。
 やがてタクシーがやってきた。若い運転手が窓から顔をのぞかせ、「おまたせしました」と僕に言った。
「おばちゃーん、いつもありがとうな」
 タバコ店の主婦にも声をかけている。僕も彼女に礼を言って、車に乗り込んだ。
 運転手は僕と同年配とおぼしき男で、人懐こく笑っている。
「観光やないですよね? なんにも見るもんないですからねえ、このあたり」
「この住所まで行ってもらいたいんやけど」
 ちょっと不安になりながら、昨日メモした例の住所を示した。僕自身、未知の場所だから、ここからはこの運転手だけが頼りだ。
 彼は「はい、こちらですね」とこともなげにうなずき、カーナビに住所を打ち込んだ。ひとまずほっとしてシートに背中をあずける。ややあって画面に表示された場所を見て、運転手が「あれ、この家」とつぶやいた。
 車を発進させながら、尋ねてくる。
「あの、お客さん。失礼ですけど、こちらのお宅とお知り合いなんですか」
 バックミラー越しに運転手の探るような視線を感じる。
「いや、別に知り合いというわけじゃないけど……」
 なんだろうと思いながら歯切れ悪く答える。なおも運転手はちらちらと見やってくるので、僕はつとめて笑顔を作り、こんな風に言ってみた。
「実は僕、民俗学を研究している者なんやけど。そちらの高橋さんの家で人魚をまつっているっていう話を聞いて、それでちょっと」
「あぁ、そっちのほうですか」
 運転手があからさまに安堵した様子で声を明るくした。
「知ってる?」
「ええ、もちろん。ここらじゃ有名ですよ。人魚長者なんて呼ばれてはってね」
 やはり先ほどの「湖北のむかしばなし」に載っていた話は、高橋家のことで間違いないようだ。
「長者って言われてるくらいだから、お金持ちなんやろうね」
「そうですね、あの辺りやと一番の家でしょうね……でも、今はねぇ」
「ああ、そういえば……最近は羽振りが良くないとか」
 昨夜、坂田の奥さんから聞いた話を思い出した。高橋家の人が金に困って京都の骨董品店に品物を売りに来ている、という話だった。
「そうなんですよ。何年か前の話ですけど、妙な事業に手を出してしまわはって」
 運転手は話好きらしく、軽快にハンドルをさばきながらしゃべる。
「財産あらかた、借金のかたに取られてしもたそうですよ。まあ、ここらの土地なんかあんまり値打ちないけど、長浜あたりまで足伸ばすと観光のお客さんも多いし、結構賑わってるでしょ。高橋さんはあっちにもビルや駐車場をたくさん持ってて、その上がりで不自由ない暮らしをしてはったそうやから……それがもう自宅くらいしか残ってなくて。家族もバラバラになってしもて、今はご主人一人、細々と暮らしてはるみたいですよ」
 もしかして、と思いついて尋ねてみた。
「さっき、僕のことを借金取りの人間か何かかと思った?」
「あ、実はそうなんです。前に一度、その手のお客さんを乗せたことあって」
 どうもすみません、と笑いながら謝った後、彼は「そうだ、学者さんやったらこんな話も興味あるかなぁ」と続ける。
「高橋家がそんな風になってしもたのは、実は人魚が怒ったせいだという話もあるんですよ」
「人魚が? どういうこと?」
「あそこのご主人、家を売り払って東京かどこかに引っ越そうとしはったんです。新しい事業を手がけるにはこんな田舎に引っ込んでたらあかんって。まぁその通りなんですけど。そしたら人魚が『私を見捨ててゆく気か』と怒って、家を没落させてしまった、と……ま、誰が言い出したのか、ただの面白半分の噂ですけどね」
「ふうん……でも、見捨ててゆく、ってどういうことやろう。東京に移るなら移るで、守り神の人魚ももちろん連れて行くだろうに」
「さあ、どういうことなんでしょうねぇ」
 運転手は苦笑しつつ、「これは、この辺の年寄りが言ってることですけど」と話を続けてくれた。
「人魚っていうのは人じゃなく家につくんや、って聞いたことがありますよえ。猫じゃあるまいし、って感じですけど。僕なんかは、ほら、人魚ってもともと琵琶湖にいたんでしょ? だから琵琶湖から離れたくなかったんかなあ、なんて思いますね」
 そんな自説まで披露してくれた。「なるほど」と僕もうなずく。それは一理ありそうだ。
 それにしても、守り神であるはずの人魚が怒る――という部分に、ひっかかりを覚えた。確かに、守り神をないがしろにして祟られる、という話はないではない。
 『遠野物語』にも、ある栄えていた家から座敷わらしが出て行き、直後、その家のほぼ全員が毒茸にあたって死に絶えた、という話がある。その前段には家の使用人たちが屋敷内で蛇を見つけて殺してしまった、という話が載っており、蛇殺しと座敷わらしが出て行ったことの因果関係ははっきり書かれていないが、それが座敷わらしにとっての禁忌に触れた可能性はある。
 高橋家の場合は、何が禁忌だったのだろう。噂話が語る通り、人魚を置いて家から出て行くことがいけなかったのだろうか? だが、どことなく違和感を覚える。それではまるで、守り神であるはずの人魚が人間を縛りつけているような――。
「ほかに、人魚についての話、何か知ってる?」
「あー、いろいろありますよ」 
 運転手は屈託のない調子で続ける。
「お金持ちやから妬まれてたんかもしれないけど、昔からあの家には変な噂が絶えなかったみたいですよ」
「変な噂?」
「うちのばあちゃんから聞いた話なんですけどね、高橋家には一代に一人か二人、不幸な子供が必ず生まれてくるんですって。生まれつき手足が不自由とか重い病気だとかで、一生寝たきりで過ごさなあかんような」
「え、寝たきりで……」
「ええ。人魚から幸運を与えてもらう代償だろうって、かげでは言われてたみたいですねぇ。今のご主人にも子供が何人かいたけど、一番上の男の子は脳の病気か何かで不自由な体で……学校もほとんど行けずに、結局、事業失敗と同じ頃に亡くなってしまわはったんですよ。お葬式はひっそりと家族だけで出さはったみたいで。気の毒やわ」
寝たきりの病人。それは「人魚長者」の話に出てくる、人魚の神通力で足腰が萎えてしまったという兄と、奇妙に符号が一致する。昔話の兄は悪さをしたから当然の報いを受けたわけだが、人魚を家に迎えてやった優しい弟の子孫とされている高橋家に、代々不自由な体の子が生まれるとは、いったいなぜだろう。昔話にお決まりの因果応報の枠に収まりきらない話に、僕は薄気味悪さを覚えた。
「おばあちゃん、そういう話に詳しいんやね。高橋さんの家と親しいの?」
「いやぁ、親しいっていうのとはちょっと違いますけど。あっちは村の長者だし、うちは先祖代々……なんだっけ、なんとか百姓だし、ってよく言ってて」
「水呑(みずのみ)百姓?」
「あ、それそれ。でもまあ、同じ在所の人間ですからね。ずっと昔、ばあちゃんが子供の頃には、お祝い事とか法事とか、そういう時に手伝いで高橋家に呼ばれることもあったみたいですよ。今はもう、そんな習慣もないですけど」
「高橋さんのお宅に入ったことがあるんやね。人魚、本当にいたんかな?」
「あ、それ、ばあちゃんも気になったみたいで。人魚様ってどこにいてはるんやろう、ってこっそり探したみたことあるらしいですよ」
 僕は「へえ、どうだったの?」と思わず身を乗り出した。
「でも、妙なことにね。人魚が棲んでいそうな池とか、全然なかったそうなんですよ。庭にはごく普通の井戸があるだけで、のぞいてみても釣瓶が下がっているだけ。それ以外には水たまり一つない。風呂場や台所、奥座敷から蔵の中までうろちょろしてみたけど、人魚なんてどこにもいない。ただ、仏間に人魚を描いた墨絵の掛け軸がかかっていて、なぁんだ人魚様というのはこれのことか……がっかりして出て行こうとした時、ぱちゃぱちゃ、って絵の方から水音が聞こえて、びっくりして逃げ出した、っていうんですよ」
 ふふ、と運転手は笑った。
「ま、作り話やと思いますけど。うちのばあちゃん、そんな話をして子供を怖がらせるのが好きでねぇ」
 運転手の明るい話し振りを聞いていると、確かに、すべてただの昔話、作り話に過ぎない、と思えてくる。いちいちその話の意味を深刻に考え込んだり、気味の悪さを感じたりしてしまう自分は、ちょっとどうかしているのかもしれない。
「本当にね、人魚なんて伝説のものやからね」
 そう答えて、笑ってみせた。ふと亡き祖母を思い出した。この運転手も幼い頃はばあちゃんに昔話を聞かされて育ったクチかな、と思うと、親近感を覚えた。
 車は安全運転のスピードで、田んぼの中の道をなめらかに走ってゆく。雨の田舎道には、行き違う車も歩く人の姿もほとんど見られない。
 そう、人魚なんてこの世にいるはずがないのだ。坂田は存在しないものを追い求めてこんなところまでさまよってきたのか。そう思うと、途端に物悲しくなってきた。
 昔、僕らは「生きている人魚を見たい」と言い合ったことがある。でもあれは、若い日の思い出の一つに過ぎない。
 古いもの、懐かしいものは、すべて遠く過ぎ去ってゆく。僕はさびしく思いながらも、いつもそれを受け入れてきた。祖母が死んだ時も、その思い出がしみついた古い家が取り壊された時も、幼い頃に夢中になって遊んだ景色が失われていった時も――一抹のさびしさは心の隅に残っているが、しかたない、と自分を納得させてきた。「生きている人魚」も、同じことだ。かなうことのない、遠い日の夢。
 先ほど電話ボックスの中で、自分には過去への回帰願望があるかもしれない、と思った。しかし考えてみれば、昨日の電話で僕は「生きている人魚」という言葉を聞いたのに、今日になるまで思い出せずにいたのだ。自分の中でそれは、ただの懐かしい思い出として処理されてしまっていたのだろう。
 だが心を病んだ坂田は、それを現実にしなくては気が済まなくなってしまったのだろうか――。

(④につづく)

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