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悪路の先にあったのは「奇跡」のような自主避難所だった。葛藤を抱えながらも伝えたいと思ったこと
能登半島地震から7月1日で半年。被災地では今も多くの人が生活の再建に向けて苦難の日々を送っておられます。この間、多くの同僚が現地に足を運び、被災された方や支援に当たる皆さんの声を聞き、記事を送り出してきました。
今回は、名古屋支社管内に勤務する若手記者2人が、とある自主避難所に通う中で感じたことをお届けします。
こんにちは。名古屋編集部の平等正裕です。
2月下旬から1週間、能登半島地震の被災地に入りました。断水が続いていた石川県珠洲市で、住民やボランティアが協力して水を確保した自主避難所を取材し、以下の記事にまとめました。
地震発生から間もない1月中旬には、金沢支局の西岡克典記者もこの避難所を訪れていました。記事にはその際の様子を十分に盛り込めず、心残りがありました。被災地を拠点に活動する西岡記者と、応援で現地入りした私(平等)。今回のnoteでは、立場が違う2人の目線を通じて、生活再建に奔走する方々の姿を伝えたいと思います。
※能登半島地震については以下の記事もどうぞ
見覚えのない光景に言葉を失った
はじめまして、西岡です。金沢支局は南北に長い石川県全域をカバーしています。私は元日の地震発生直後から6月末までに30回以上、珠洲市を中心とした被災地で取材を続けています。
発生から間がない1月の頃を振り返ると、被災者のお話は生々しい体験や先行きの見えない不安に関する声がほとんどでした。特に、珠洲市では昨年5月5日にも震度6強の地震が発生していました。1年足らずで再び大地震に見舞われたショックは大きく、現実を受け止めきれない様子でした。
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昨年5月に取材したときと被害の規模は比べものにならず、言葉を失うことが何度もありました。つい数か月前まで建っていたはずの倒壊した家屋、津波の到来を示す、道路を覆う一面の砂、住民の多くが避難し、人けがほとんどない通り…知っているはずの場所に広がる、見覚えのない光景を前に「街の息が止まりかけているのではないか」と感じました。
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珠洲市では、市役所や総合病院などの主要施設は富山湾側の「内浦」地区に集中しています。震源にほど近く、集落が点在する日本海側の「外浦」と呼ばれるエリアでは孤立が発生していました。道路の亀裂やずれによる段差があちこちで生じたため、1月時点では外浦地区への移動自体が危険でした。最前線にたどり着けないもどかしさを抱えながら「内浦以上に復旧の手が回っていないであろう外浦の人々は、さらに悲惨な状況で苦しんでいるのではないだろうか」と想像していました。
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1月中旬、外浦地区への通行が確保されたことを受け、東京の本社から派遣されたランドクルーザーにカメラマンと乗り込み、外浦方面を目指しました。珠洲市の中心部から続く峠道は、想像以上の悪路でした。
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ぬかるんだ地面で車体は激しく揺れました。至る所に倒木や積雪があり、非常にゆっくりとした走行を余儀なくされました。道幅も車1台分しかないため、対向車が来たらバックで数十メートル戻ることもありました。1時間半ほど道なき道を進み、外浦の沿岸部に到着。日本海が目前に広がっていました。
雨が断続的に降る中、海沿いの道をさらに西へ約1キロ進むと、大きな亀裂に阻まれました。「ランクルでもこれ以上は進めない」。途方に暮れる中、ふと視界に入ったのが道沿いに建っていた馬緤町の「珠洲市自然休養村センター」でした。
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窓の外から遠目に見ると、何人か生活している様子がうかがえました。まるで秘境に向かうような道のりだったからか、正直なところ、胸に浮かんだのは「こんな過酷な環境で、地震後も生活が成り立つのか」という驚きでした。おそるおそる中に入ってみると、想像とは異なった光景が広がっていました。
「せめてここにいる間は」
能登半島地震では、自治体が体育館や公民館に開設する「指定避難所」のほかに、住民が身近な場所に身を寄せる「自主避難所」も多く開設されました。珠洲市自然休養村センターもそんな自主避難所の一つでした。
今回の地震後、この場を訪れた報道関係者は私たちが初めてでした。リーダーを務める小秀一さんと国永英代さんは、私とカメラマンをとても明るく迎えてくれました。
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中を見て回ると、非常に自立的に運営されている様子が見て取れました。避難者数やその家族の安否を落とし込んだ地図、自衛隊が訪れるスケジュール、救援物資のリスト、集団生活を送る上での注意事項、1週間の天候…。ありとあらゆる情報が黒板や模造紙にまとめられ、センターのあちこちに張り出されていました。
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毎日決まった時間に行うミーティングでは、住民の安否や最新の道路状況、翌日の食事メニューなど、各種の情報を共有します。自主避難所ならではの強みだと思いますが、ここまで整然と、緻密に共有されているのを見たのはこれまでの取材で初めてでした。
珠洲市中心部から距離がある馬緤の人々は元来「自活力」が高く、地震前は多くの住民が海に潜って海産物を採っていたといいます。小さんと国永さんも幼い頃から海に潜っていたそうで、国永さんは「小さんは潜りの名人。潜った所はサザエがいなくなる」と教えてくれました。地震直後に孤立に近い状態になった際も、地盤が隆起した海辺に打ち上がったサザエや自宅の畑で採れた野菜など、さまざまな食料を持ち寄り、苦況をしのぎました。
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「自分たちで何とかする」という思いが強いことも印象的でした。自衛隊からの配給が届くと「これを運んで」と声をかけ合いながら、自主的に動いて物資を運び入れていました。「馬緤の人は口より先に手が動くんです」と国永さん。自宅に住めなくなった人も多く苦しい状況なのに、知恵と経験を生かして協力する姿がとても新鮮でした。
常に明るい雰囲気が漂い、部外者の私もいつも笑顔で迎えてくれました。サザエのおにぎりなど、地元食材を使った食事をごちそうになることもありました。避難所で談笑していた女性に暮らしぶりを尋ねると「快適。一等賞をあげたい」と笑顔。国永さんは馬緤の人々の声を代弁します。「自宅が倒壊していたり住めなくなったりで、家にいると悲しくなることもある。でも、せめてここにいる間はみんなで助け合い、笑い合っていたい」
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まさに「奇跡」のような自主避難所で見た光景をどうやって記事にしようか。何をメインテーマにするべきか。切り口に悩んでいる間に1カ月が経過しました。そんな中、応援の平等記者が私とは別のタイミングで、たまたま珠洲市自然休養村センターを訪れていたことを知りました。
何に注目するべきか
再び平等です。金沢支局は私が所属する名古屋支社の管内にあります。地震直後は名古屋から電話で取材したり、現地の取材報告を基に記事をまとめたり、といった業務が中心でした。2月24日に初めて能登地方に入りましたが、その時点で全国から延べ数十人の記者が交代で被災地に入り、日々、力のこもった原稿を書いていました。「今から行って何ができるだろうか」。悩みながらの能登入りでした。
珠洲市の馬緤町地区を訪れたのは25日。土地勘をつかもうと珠洲市内を車で回っていた際に偶然、たどり着きました。最初に住宅が並ぶ地域を回りましたが、人影はありません。海沿いにある自然休養村センターに明かりがついており「避難所だ」と直感したものの、取材を申し込むべきかどうかためらいもありました。少しでも難色を示されたら無理強いはせず引き上げると決め、入り口から声をかけると、快く迎えてもらいました。
取材に応じてくれた人が口をそろえて語ってくれたのが、センターでの暮らしの快適さでした。例えばこんな言葉です。「避難所という感覚がないんです。共同生活所ですかね」。水や火といったインフラを確保した方法は、47リポーターズの記事に書いた通りです。当時はボランティアによる被災地入りも制限されていましたが、センターは環境が整っていたため、複数人が寝泊まりしていました。私と地元の方でこんなやりとりもしました。
住民「お風呂に入っていきますか」
平等「いや、さすがにそういうわけには…」
住民「泊まってもいいのに」
平等「すみません、取材予定もありまして…」
お誘いはありがたかったのですが、申し訳ない感情が先立ち、固辞しました。
私が訪れた2月下旬は、自治体による被災地支援の方法が変わりつつある時期でした。別の自治体では自主避難所への支援物資配達を取りやめ、避難者自身が取りに行く形に変わりました。馬緤の人たちもこうした動きを気にかけてはいたものの「自治体からの支援がなくなり『解散しろ』と言われても、ここでやっていきたい」と力強く語ってくれました。
取材内容を社内で共有したところ、西岡記者から「どういう切り口で記事にするか悩んでいます」と声が上がりました。被災地の状況や課題は日々変わります。被災直後から1月中旬までの状況をまとめて2月末に記事にするのは、新しい話を報じるというニュース性の観点で難しさがありました。ただ、私のように期間限定で被災地に入る応援記者とは違い、金沢支局の西岡記者には被災地にとどまり、取材を続けられる強みがあります。
「被災直後の状況をどう乗り越えたか」だけでなく、地域の立て直しに向けた今後の動きに注目すれば、思いがより伝わる記事になるのではないか。西岡記者とこんなふうに打ち合わせて、継続取材の方針を確認しました。
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マツナギでギバサ
47リポーターズの記事で触れた、災害廃棄物を住民やボランティアが協力して片付ける取り組みは、地域を立て直す足がかりになるものです。私(平等)が初めて訪れた2月下旬は、屋根から落ちた瓦などが手つかずのまま残った家屋が多くありました。珠洲市への要望を重ねて、廃棄物の一時保管場所を地域内に作ったことにも、結束の強さや復興に向けた意気込みを感じました。
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最終的に配信した記事は、私が当初想定したものとは少し異なる内容になりました。センターでは予想以上に多くの方がインタビューや写真撮影に応じてくれたため、地域への思いや復興への決意をそれぞれの言葉で語ってもらう内容となりました。
ところで馬緤という地名ですが、都落ちした源義経が奥州平泉に逃れる際に、この地域に立ち寄って馬をつないだことから名付けられたとされています。私は計3回訪れ、センターに足を運んだ最終日にはその日の朝に海岸で採れた海草をいただきました。地名同様、義経伝説にあやかって名付けられた「義馬草」です。義経が馬に食べさせたとされ、酢みそとあえたシンプルな味付けが身体に染みました。
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行方が見通せないからこそ
記事は名古屋に戻ってから、西岡記者とやりとりを重ねて完成させました。一方で正直なところ、出すことへのためらいもありました。被災地の好事例を発信することが、地元を離れた被災者を傷つけることにならないだろうかという点が気にかかったのです。避難所として使える建物があり、防災士のようなノウハウを持った住民がいた馬緤は特異なケースで、どこでも同じことができるわけではありません。自治体の支援を頼り、生活が落ち着くまで県外に避難する決断も当然尊重されるべきです。
SNS上では、過疎地の復興にコストをかけることを疑問視する声が散見されました。財務省の分科会は今年4月、被災地が人口減少局面にあることから、復興には「将来の需要減少や維持管理コストを念頭に置き、住民意向を踏まえた十分な検討が必要だ」と表明しています。被災地がむやみに切り捨てられることはないと思いますが、議論の行方が見通せないからこそ「故郷で生きていきたい」と奮闘する人たちの姿を知ってもらいたい。記事の配信を決めたのはそんな思いからでした。
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馬緤では水道が復旧した一方、屋内の水道管が壊れている住宅も多く、6月下旬時点でもセンターに十数人が身を寄せています。夏にお祭りを開こうと、協力して準備を進めているそうです。
高齢化や過疎化といった奥能登地域の課題は全国共通のものです。同じ状況が次にいずれどこかに訪れないとも限りません。災害に遭った地域の復興はどうあるべきか。この記事が考える一助となれば幸いです。
平等正裕(ひらとう・まさひろ)1994年生まれ、島根県出身。
2017年入社、新潟支局、広島支局を経て、名古屋編集部で裁判取材を担当。バイクのツーリングが趣味で、能登半島もいつか走ってみたいです。
西岡克典(にしおか・かつのり)1998年生まれ、大阪府出身。
2023年入社で金沢支局が初任地。普段は事件・裁判取材を担当。休日は映画を見に行くことが多いです。一番好きな映画は「ニュー・シネマ・パラダイス」。
平等記者が以前書いた記事はこちらから読めます。