「風化」と「継承」-2つの惨事がたどった30年の軌跡
こんにちは。共同通信の森脇江介です。今年3月に特派員としてアフリカ・サハラ砂漠以南の約50カ国を担当するケニア・ナイロビ支局に赴任しました。赴任直後に取り組んだのが、発生から30年となったルワンダ大虐殺の取材でした。
以前神戸支局にいたときに取材した阪神大震災は、来年で発生30年を迎えます。ルワンダ大虐殺はほぼ同じ時期に起き、約80万人が亡くなった大惨事です。自然災害とジェノサイド(民族大量虐殺)という違いはありますが、悲劇的な事案がどう継承されているのか、気になっていました。
「知らない」に衝撃
神戸支局時代に阪神大震災28年の節目に向けて取材していた時、多くの取材相手から会うたびに受けていた指摘があります。「風化が進んでいる」ということです。震災では6434人が犠牲となりましたが、市民の大半は経験していない世代です。取材した若い語り部はこんなふうにこぼしていました。「大学進学で東京に行ったら、周囲が震災を知らないことに衝撃を受けた」と。
たとえ復興が成し遂げられたとしても、災害列島・日本では新たな災害を防ぎ、犠牲になった人々を忘れないためにも教訓や記憶の継承が不可欠です。そういう思いを込めて、神戸在任中に以下のような記事を書きました。
悲劇は現在進行形だった
ルワンダの首都キガリには4月上旬に到着しました。「30年もたてば、阪神大震災と同様に風化が進んでいるのではないか」と思っていました。ところが取材で直面したのは、風化どころか今も現在進行形で続く悲劇でした。各地に建立された虐殺記念館には大量の遺骨が並べられ、取材で足を延ばした南部フエではいまだに土の中から遺体が発見されていました。
正確な死者数や、全ての犠牲者の身元は今も特定されていません。虐殺は1994年の4~7月の出来事でしたが、実際には30年たった今も終わっていないのだと気付かされ、悲劇の継承と未来への思いを込めて次のような記事にまとめました。
まるでオリンピックの開会式
フツ人主体の政府軍や民兵が、少数派ツチ人や穏健派フツ人の殺りくを全土で繰り広げたルワンダ大虐殺。一定の年齢以上の人はほぼ全員が経験者、生存者で「そこら中に遺族がいる」状態です。首都郊外の虐殺記念館で会った若者は「悲しいけれどこれが私たちの歴史だ。伝えていかなければならない」と力強く語ってくれました。
ルワンダでは虐殺が起きた4~7月に、各地で国を挙げた追悼行事が続きます。虐殺が始まった4月7日に首都のスタジアムで行われた追悼式典は、若い世代を意識してか、ダンスや歌のパフォーマンスを交えた荘厳なものでした。オリンピックの開会式と見まごうような光景だった一方、語り部の講話では会場の至る所から泣き叫ぶ声が上がりました。
ルワンダはかつてベルギーの植民地でした。虐殺が拡大する原因となったのは、植民地時代に端を発する身分証の民族記載欄だったとされています。収束後に政権を握ったカガメ大統領は、この民族記載欄を廃止し「ルワンダにいるのはルワンダ人だけだ」という姿勢を鮮明にしています。
民族区分はなくなりましたが、国民の大半が「かつてのフツ人」だという状態は今も続いています。国の統一と安定を保つために、負の建国神話として虐殺が機能している側面も否めないのかもしれません。
答えに窮しても
悲劇の継承を巡っては、時に遺構の保存などを巡って「記憶や教訓を忘れてはならない」という立場と「きつい記憶を忘れて前に進みたい」という立場が衝突します。東日本大震災に襲われた東北地方を取材したときにも「もう忘れたい」「話したくない」という被災者の方に数多く接しました。心穏やかに今を生きるためにつらい思い出にふたをしたいという気持ちに直面して、歴史を紡ぐ記者として風化を問題視してきた部外者の私は答えに窮することがありました。
同じ時期に起きた阪神大震災とルワンダ大虐殺という2つの悲劇は、風化という意味では異なる経過をたどっています。風化が進んでいようがいまいが、当事者として悲劇を経験した人々は多く存在します。自らの体験を語る際、心の痛みにさいなまれる人が多いであろうことも想像に難くありません。
同時に、50年、100年たった時にこれらの出来事をきちんとした歴史として引き継ぐことも重要です。痛みを乗り越え、まだ見ぬ聞き手を求めて現場に埋もれていた声は、30年たった今もなお掘り起こされています。その声に耳を傾け、今残せるものを書き残さなければならないと強く感じました。