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演劇考が五か月ぶりになった理由

 前のnoteから、間が空いた。昨年10月17日以来なので、5か月ぶり。
 コロナも収束方向で芝居の本数は通常運転だし、勿論観ているが、いくつかの理由で書いてなかった。

1.劇評とは何か、を問い直す日々

 劇評とは何か、を改めて真面目に問い直していた。
 他の人たちの視点も交えて“勉強”していた。そもそも正解のない芝居を、個々の視点で書くのである。さらに正解はない。が……
 自分の書き方は、5W1Hを基本にし、事実と構成(つじつま)及びメッセージ性(結局何が言いたいのか)を重視する傾向にある。そのため、豊かな想像力、幻想性、独創性、「わけわからないけど面白い」、計算外の発見、辺りが弱い。
 
そうした自分の立ち位置を再確認。いいも悪いもないが、自分がどんな傾向のところにいるか、ある程度客観的に把握することは重要と考える。そのうえで、今後も自分なりの世界を模索する。
 また、「書くこと」、思考を絞り出し、脳みその中のもやもやを文字化(=可視化)する作業で、炙り出されるものがある、とも再認識した。書くことは、重要な作業だ。ただし、責任を持って(匿名であっても)。

2.芸能界はやはり“商品価値の高低”?……なら、演技とは?

 映像でも大人気の某俳優(芸能人の範疇)を、初めて舞台で観て……ショック。
 その俳優の“商品価値”は、既に獲得している人気に加え、他の俳優ではほぼ代替困難と予想される希少性の観点からも極めて高いだろう(ギャラは知らない)。個人的にも「好み」だ。その「個性」は間違いなく際立ち、映像で出てくると、つい見てしまう。ただ、演技力は「?」ではあったが。

 舞台で観ると、その「?」な演技力が、(自分から見ると)そのままであった。気がする。地味ながら舞台で鍛えて生き残った俳優に比べかすんで、負けてしまっていた気がした。声の張り、滑舌、立ち姿、所作、オーラ。顔は勝っていたが。。
 
いや、本人は努力を重ねている、それは間違いないが。
 う~む、若手ならともかく中堅どころ。ここまでン年頑張ってそれということは、今後そんなに大きく変化することはあるまい。
 勿論、自分が観た時の役柄が、その俳優のいいところを舞台で引き出すのにあまりそぐわないものだった可能性も高いが。
 ……と言いつつも、その俳優の商品価値は素人がぐちゃぐちゃ言ったところで今日も高いことに変わりない。これが芸能界か。

 有名な芸能人が出るのでチケットもそれなりにした。それがゆえ、う~無、の度合いは更に増す。そして、唸っているうちに、評を書くのを止めた。
 演技は誰でもできる。その先に何があるのか、考えさせられた。

3.「演出家の権力」パワハラ・セクハラ(性加害)問題

 現在、裁判で係争中なので、あまり偏ったことは書けないが、昨年12月に表面化した、某劇作家・演出家のパワハラ・セクハラ(性加害)問題では、芝居そのものの構造を再考せざるを得ず、またまた考え込んでしまった。
 以前にも別の劇団主宰者のパワハラは話題に上ったが、昨年半ばまではどちらかというと映画監督・俳優が問題化、舞台は? と思っていたら、出たあ!

 「演出家の権力」、という問題。権力の大きさは、映画監督>舞台演出家、だろう。映画監督は俳優募集から撮影、演技指導を経て、最後に客に見せるものを切り貼りする編集権まで握っている。舞台は最後は、舞台上の人に任せるしかないので、そこは違うが、まあ似ている。選ぶ側であり、あーだこーだ「指示」「指導」「いちゃもん」「教え」る側。
 そうは言っても、俳優側もおとなしく言うことを聞いて即座に反応する人間ばかりでもないだろうから(雑多だから面白い)、「ある程度」の強制力を持って指揮命令する権利は、最終的に作品をまとめる責任を負う演出家や監督には必要だ。
 が、あくまで「ある程度」である。パワハラの程度か。セクハラ、ましてや性加害が事実であれば、一発アウトだ。

 にしても、その作品が好きで感動したのにな。がゆえにがっかり感は半端ない。

 ……というような理由などで、なんとなく、空いた。
 また、つらつら書いていくことをしてみたい。 

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