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評㉘ワンツーワークス『民衆が敵』@中野ザ・ポケット、4800円

 劇団ワンツーワークス#35、古城十忍(としのぶ)作・演出『民衆が敵』@ザ・ポケットin中野、全席指定・前売4800円で観た。当日5000円、学生3000円。5/5~5/15。東京公演は終わったが、5/19~6/2に広島、熊本、鳥取、宮崎で地方公演。配信予定あり。

芝居の根底には常に「なぜ、今、この芝居を上演するのか」

 観てから時間が経ってしまい、やや記憶があやふやだが、書く。ここに観た公演の全てを書いてるわけではないが、比較したいものが次に来るので。

 これはいわば社会派演劇の類。やや政治がらみの(≠政党的・信条的)、あるいはジャーナリスティックな社会派演劇は嫌いではない。「なぜ、今、この芝居を上演するのか」は明確だ、たとえ“反体制”であっても一方的な押しつけでは困るが。

 そもそも、「なぜ、今、この芝居を上演するのか」は、常に上演する側が自らに問い、誰かに、特に金払った客に問われれば、いつでも自信をもって答えられるよう準備しているのが当たり前と思っている。客は金払って時間割いて足使って、観に来るのだから。

 とはいえ、そんなに難しい話でもなく、ギリシャ悲劇やらシェークスピアやら歌舞伎やら、どんな古典だって、現代に演じる意味は、人間の生きる様を描いていれば、きっとそこにあるはずで。有名人目当ての客が集まる芝居でも、ホームドラマだろうか、ヒューマンドラマだろうが、「なぜ、今、この芝居を上演するのか」必ず根底に流れているはずで(と思う)。ただ、漫然と「この作品が好き」でやってほしくはない。まあ、大丈夫だろうが。

 作家や演出家、プロデューサーは当然答えを持っているものと思う。
 
一方、役者は、やや微妙。一人芝居ならまだしも、十人十色こそが役者の多様性だと思うし、みんながみんな演出家と同じ考えです! だと気持ち悪いではないか(理解はした方がいい)。そう、演出家や劇団主宰者と対等に意見を戦わせる役者がいい気がするが、といって、役者全員がそうだとそれもまた単一色の気がする、うーむ。これは置いておき。

自分は「考える材料の提示が演劇」だが、客は様々

 もちろん、客もいろんな見方がある。自分は思考・思索を好んでするし、創作の一端にも手をかけかけていることもあり、客として「考える材料を提示してもらうのが演劇」と捉え、どんな芝居を観ても、そこに自分の参考になりそうなネタと同時、社会課題的メッセージを探してしまう癖がある。
 そんなのとは全然違い、舞台を観に来る理由が「非日常体験」や「カタルシス(感情浄化)」、ストレス発散という人もいてそれはそれで。

客にメッセージを届ける準備のない演劇は無価値

 ただ、とにかく、芝居を打つ側が、客にどうメッセージを受け止められるかの「準備」を怠っているものは、見る価値がない、これは断言する(あからさまに出す必要はない)。
 客はいろいろに受け取っていいし、客の想像に任せる、でいい。もしかすると、演出側の意図と異なる受け止め方をされることもある、それもいい(というか、そこまで考えて作ってほしい)。
 ただ、客がどんな風に受け止めるにせよ、上演側は、最低限、客に今何をどう伝えるか、を準備しておくべきで、できればどう伝わる可能性があるか、まで考えて作る。
 それが難しいのであれば、無理せず古典作品を自分なり今なりに演出、でいいのではないか。何百年、何十年と繰り返され、生き残ってきた古典はやはり、それなりのメッセージをはらむ。上演した側が「わかる人だけにわかればいい」は、何か違う。絵とは違う。

「なぜ、今」が明確な社会派演劇

 社会派演劇の場合、古典でも新作でも「なぜ、今」は最初から明確だ。むしろ、チラシなどで前面に出してうたい、それを持って興味関心を引こうともしている。

で、『民衆が敵』。『民衆の敵』のもじりだが、中身は違う

 で、この芝居だ。『民衆が敵』。これはどう見ても、イプセン『民衆の敵』のもじりだろうが……中身は全然違った。
※以下ネタバレあり。台本1000円買った。

元新聞記者・古城十忍のジャーナリスティックな芝居

 作・演出を手掛ける「古城十忍の演劇」と劇団HPに銘打っている通り、古城のアイデアを作品に仕立てたものを上演している劇団。
 古城は、もと地方新聞記者(熊本日日新聞政治経済部)。このため、ジャーナリスティックな視点の作品が多いようだ。自分は、以前、どこかの公演で配布されたチラシに混じっていた『男女逆転マクベス』のタイトルに惹かれ、観てそれ以来。記者は見出しで、いわばキャッチコピー的に読者をひきつける術を知っている人が多いはずだから(記事に見出しを付ける整理部なり編成部なりを経験すれば)、その術中にわかっててはまってみました。

 新聞は、明治期辺りには政党新聞が論を競う意味合いのものも多かったし、体制に疑義をはさむ姿勢を持つ演劇と、本来は親和性が高い。元新聞記者が社会派演劇を手掛けるのは、わかる気がする。

観客から共感度が最も低かっただろう記者キャラ、を作った

 そして、今回、元新聞記者であるからこそ、作りあげることができたキャラは、おそらく観客から共感度が最も低かったであろうフリー記者「キッタカ・タカシ」であろう、と勝手に断言する。

「国の手先」官調をもっとも共感得るキャラ集団に

 全体に戻ると、内閣情報調査室(通称・内調)をもじった「官房情報調査室(通称・官調)」の面々。活動家というか、プロ市民的な人たちの「人権理解を深める会」の面々。高校の先生と生徒の「真星高校」の面々の3グループがメーンで、他に黒目線の人々(メディアまたはSNSで炎上させる人か)がいる。役者たちは一部ひとり二役三役。
 で、本来「国の手先」たる官調を、客の共感を最も得やすいキャラ集団にすることで、国、個人情報、SNSの怖さなどを複層的立体的にあぶり出す構図とした。なるほど、これは危ういが上手い。なんでもかんでも国が上級で庶民をいたぶる、という構図では偏ったプロパガンダとなるが、共感の位置を普段とひっくり返すことで新たな視点が生まれる。

 この官調は「職場」として描かれる。国家公務員試験の何種だかに通った男女らが配属され、「仕事」として「国を守る」ために、情報を収集し、“操作”までしていく。その対象はやがて一般人にまで及び、室員たちは「国を守る」という大義名分は「時の政権を守る」に過ぎないのではないかと疑問を持ち始める、という流れ。
 この設定は、「民衆の敵」とされがちな国の機関=上級=圧政、というありがち設定よりも、その中にいる「普通」の人間たちの心の動き、揺れを描くことで、改めて「国」とは何かを効果的に考えさせることができたと感じる。

「俺はこの仕事に向いてなかった。定年まであと2年」

 特に最後、官調職員ノジマ・タクトが退職を決め、娘に「俺はこの仕事に向いてない。向いてなかった。定年まであと2年だというのに、この年になってやっとわかった」「いつだって人は歩みを止め、思いとどまり、別の道に歩き出していい」という台詞。国とか情報とかの課題はいったんおいて、広く人間の人生観として考察できるものと思う。
 特にサラリーマンで何十年もそれに捧げてきた人が、最後の最後で「自分に合わない仕事をしてきた」と思ってしまうことは多々あるだろう。それはショックかもしれない。無駄な人生を過ごしてしまったと思うかもしれない。しかし、それでもいいのだ。そこで辞めて次に行っても、そこから始めれば。そんなことを勝手に感じた。

危うい「民衆」、正論を主張しつぶされていく教師

 一方、「民衆」の「人権理解を深める会」こそ危うい。最初はデモに立つが、そのうち、SNSで簡単に民意を操作・炎上できることに気づき、極めて安易にSNSに頼っていく。主体性や深く考える姿勢はない。
 「真星高校」は、まさにあるあるの、正義、正論を主張する教師の行く末。本人は「悪気はない」正義パーソンのつもりが、「同調圧力」に押されて、かつ、民衆にもつぶされかける構図。さて、こここそ正解はない。

裏切ってでもネタをとる記者、迎合しないこと

 さて、この中で、ひとり浮いたキャラがフリー記者「キッタカ・タカシ」だ。官調の職員を父に持つ真星高校教師の恋人、でありつつ、「人権理解を深める会」メンバー。しかし、そのすべてと距離を置き、あるいは裏切る形で、スクープ記事を書く。
 最初からなんだかおかしい。市民活動しているフリー記者のくせに、恋人の父親が「官調」勤めを「まさにエリートだよな」と軽く流すあたり、めちゃくちゃ怪しかった(伏線)。で、恋人を裏切る。父親の職場の記事を書く。ああ、血の通っていない感じ。ただ最後の別れの場面、「そのためだけに君に近づいたわけじゃない」の一言で、たとえそれが嘘であったにしても、ほんの一筋だけ、恋人だった娘を救う。この一言がなければ、ほんと冷血人間のまま。

 裏切ってでもネタを取る記者、それをそのまま書いた。
 迎合しない。それでいいのだ。

記者は意識的に冷血であるべき

  で、あまり深く考えずに、頭に浮かんだ暴論を書くと、記者は冷血であるべきだ。ただ、生来冷血な人間はあまり向いてなくて(冷血になりすぎて人間の気持ちがわからず危険すぎる)、中身がホットで熱情溢れる人間があえて意識的に冷血になって仕事を進める、それがメディアの記者としてふさわしいあり方だと思っている。冷血は冷静にもつながるが、やはり冷血だ
 メディアの第一の存在意義は、権力の監視であり、そのために国家公務員らに国家公務員法の「守秘義務」を破らせてネタをとってきて、不正を暴くことも行う。信用、信頼は大事だが、それよりネタを優先させる
 ネタ優先は(テレビの視聴率やネット記事のPVの重視は違う意味で書いている)なぜ大事か、というと、時の権力、あるいはその反対勢力に、あるいは烏合の衆に容易に飲み込まれないための、ひとつのルールだ。
 そう、信頼は大事だが、ならば、「信頼関係ができた人間」のネタは書かない、ということも簡単に成り立つ、隠ぺいも容易。それを防ぐ唯一の方法は、情報を白日の下に曝すこと。そのうえで、世間の判断を仰ぐ。隠ぺいに未来はない。
 もちろん、誰かに踊らされてネタを出してもダメ。そこはプロとして、裏どりなど、きちんと仕事をしなければならない。

 ただ、個人情報の扱いは、国家の情報と異なるし、ネットの普及でますまず守りにくくなっている(不用意に出す人も多い)。また、「民衆」側が匿名で批判し、自らは守られたい、というのは結構なわがままとも言える(自分か!)。
 以前は、情報は一部の媒体にしか掲載されず、あるいは知人間の話のみだった。今後はどうなっていくのか。

  ※5/20 追加 冷血より「冷酷」「冷淡」がふさわしい言葉の気もしてきている。「冷血」が生まれ持つ性質であるならば、冷血でありつつ内部に熱い感情を持つのは不可能かもしれない、と思うからだ。といって、まともな人間として「冷静」にふるまう程度の心持ちでは、権力や大きな力に容易に足をとられかねない。その意味で、あえて「冷血」「冷酷」を使う。

西山事件

 とはいえ、冷血と言っても何をしてもいいわけではない。
 今回の芝居のフリー記者で思い出したのは、1971年の沖縄返還協定に関連し、毎日新聞記者が外務省事務官の女性と関係を持ち、知り得た情報を漏洩した西山事件。日米関係に関わる重要な機密情報を探り出した優秀な記者だが、女性を利用したその「手口」は批判された。報道の自由とは何かも問われ続ける事件。

 古城がそこまで考えてこのキャラを提示したかどうかは知らない。
 また、記者の実情をあまり知らない人がこのキャラをどう受け止めたかも知らない。
 ただ、自分は、迎合しないまま、そのキャラを置いたことで、メディアのあり方が浮かび上がった気がする。

舞台転換、ストップモーション、複合場面の工夫

 そのほか構成については、可動式のパソコン設置デスク、照明、音楽で舞台転換を進めたこと、役者たちのストップモーション、違うグループが同時に舞台上で話して進行していく方式、など随所に工夫が目立った。
  ストップモーションや複合場面進行で息が合っているのは、やはり日頃から一緒に稽古している劇団員たちによる公演だからか。

  官調の要職(といっても中間管理職だが)に女性を配するのは、役者の配分事情もあろうが、今を見据えた配置だった。

 内容が内容だけに、やや硬い台詞が多かった。役者さんたちはだいたい意味が伝わるように(浮かないように)喋っていたと思う。古城は「客席の笑いが足りない」と思っていたようだが、まあ、硬めの内容台詞を一所懸命聞きとるだけで客は一所懸命だったのでは。そのうえ笑いを期待するなど欲張り!(常連なら容易だろうが) ま、それも悪くない、止まったら終わりだ。
 
 ということで、なんとかだらだら書いた。この後、別の社会派演劇を観た。
 はあ、自分もがんばらなくては。

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