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『パラサイト 半地下の家族』ストーリー解析⑤ パク家の人々と「ブラックボックス」

『パラサイト 半地下の家族』に登場する富裕層側の登場人物たち────特にパク・ダヘとダソンの姉弟、さらにその母親であるヨンギョについての分析を、本稿ではまず試みてみようと思います。

主人公側のキム兄妹────ギウとギジョンの持つ複雑な内面に比べて、パク姉弟の造形はかなりあっさりした描写がなされているように見えます。
しかしながら、この姉弟が真に抱いている欲求は本作の主題と密接に関連付けられており、作品を深堀りしていくうえでは避けて通ることのできない重要なポイントとなっています。

また母親ヨンギョもその軽妙なキャラクターの奥に、物語のキーとなる心情を抱えています。

作品内の描写として散りばめられたヒントを一つ一つ追っていくことで、「ブラックボックス」の奥にある本作の主題を見つめることができるようになると思います。

※ 以下ネタバレを含みますのでご注意ください。




ギジョンはどのようにしてダソンを手なづけたのか?

母ヨンギョの語るところによれば、ダソンは「じっとしていることのできない」問題児で、これまでにも幾人もの絵画教師がやって来ては一ヶ月ももたずに辞めていったということでした。

ところが初回の授業を終えた直後、「ジェシカ」として振る舞うギジョンに対しダソンは完全に服従している様子で、丁寧なお辞儀すらしてみせます。

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「ジェシカ」がどのようにしてダソンを手なづけたのかについて、ポン・ジュノ監督は描写をあっさりと省略していますし、登場人物の言葉による説明すらも一切ありません。
しかしその後に垣間見える二人の授業の様子から、その要因を推測する(あるいは大多数の観客がそうするように、ただ感じ取る)のは、さして難しいものではないでしょう。

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上の3つのカットを見ればわかる通り、ギジョンはいずれもダソンに密着し、抱きかかえる姿勢をとっています。

ダソンの母ヨンギョを排除した「ジェシカ」先生の授業の秘密────それはただ、生徒を「抱きしめる」というだけのことなのです。
そしてこの「抱きしめられる」という行為こそが、ダソンの常に欲しているものでした。

この説を補強する根拠として、パク家の中でダソンが特に懐いている二人────前任家政婦ムングァンと、父親パク・ドンイク社長との接触を、それぞれ確認することができます。

まずムングァンですが、ダソンは後々、彼女が職を辞してもスマートフォンで連絡を取り合うほどに懐いています。
ダソンの初登場シーンである、ダヘに対するギウの初回授業が終了した場面を見てみましょう。

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インディアンの扮装をしたダソンはムングァンに抱きかかえられ、大喜びです。
この後、ヨンギョとギウがダソンの絵を眺めている場面の背景において、ムングァンとダソンは庭で犬たちを交えて遊んでいますが、ここでもムングァンがダソンへ積極的に触れていることが確認できます。

また、父親であるパク社長との関係においても、ダソンは屈託なく飛びつき抱き上げられています。

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ダソンが「問題児」であるのは、母親ヨンギョの前と、彼女を介した関係においてのみです。(姉ダヘとは幾分険悪ながら、通常の姉弟間にはよくある関係のように見える)
これまでの絵画教師が長続きしなかったのも、母親の「授業参観」がダソンに対し、必要以上の緊張をもたらしていたためであろうと推測できます。


ダヘがギウに好意を抱いた理由

恋に理由はいらない、と言えばそれまでですが、やはりダヘがどのようにギウへ好意を持つようになったのかも確認する必要があります。

彼女がギウに対して恋に落ちた瞬間は作中でも明確に描写されていて、それが初回授業での「手首に触れられた」場面です。

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このときのギウは「ケヴィン」であり、また内心では「ミニョク」になりきっているので、本来の彼よりもはるかに大胆で、自信に満ち溢れています。
脈を取る行為は「吊り橋効果」のように自身の鼓動の高まりをダヘに意識させ、「勢い」について真摯に語るギウの表情がさらに強く彼女を惹きつけます。

前任のミニョクとダヘが実際にどれほどの仲であったのかは想像するほかありませんが、少なくとも母親の目の前でここまで大胆な接触はできていなかったことでしょう。
驚きに満ちたヨンギョの表情から、その事実ははっきりと読み取ることができます。

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同時にこのヨンギョの驚きは、彼女自身が絶対にできない「娘に触れる」という行為を、いともあっさりギウがやってのけたことにも起因しています。


子供に触れられない母親

母親としてのヨンギョは、娘ダヘとはときに微妙な緊張状態、息子ダソンに対しては一方的な溺愛という関係です。

しかし両者への立場で共通しているのは、ヨンギョが「スキンシップできない母親」であるという点です。

作中でヨンギョが自分の子供に直接触れるのは、クライマックスである誕生日パーティの混乱の中で失神したダソンを抱き上げる、たった1回のみです。
子供は彼女にとっての腫れ物であり、容易に触れることのできない存在になってしまっているのです。

ギジョンの初回授業の際、尻に矢を刺したような姿勢で寝っ転がるダソンに対し、口では立つように促しながらも息子に触れることができず、おろおろと狼狽えるばかりの姿がわかりやすい例でしょう。

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スキンシップの欠落は、必ずしも愛情の欠落を意味するものではありません。

むしろ逆に、ヨンギョは自身の子供と積極的に触れ合いたいという欲求を抱いているのです。
満たされない欲求の代償として彼女は3匹の飼い犬を異様なまでに可愛がり、常に自分の胸に抱きかかえています。

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問題は彼女が「いつから」、そして「なぜ」、子供たちに触れなくなってしまったのかということになるでしょう。


家庭内に共有されたトラウマ

ダソンが、パク邸に住まう幽霊────オ・グンセを初めて目撃した夜、ヨンギョは階下からの叫び声によって目を覚まします。
台所に駆けつけると、そこにはひきつけを起こし痙攣している息子の姿がありました。
夫が出張で不在ながらもどうにか救急病院に運び、幸いにしてダソンの命に別状はなかったものの、医者から「緊急時には15分以内の救命行為が重要だ」と脅かされます。

この「幽霊事件」は、ダソンにだけでなく、ヨンギョの心にも深い闇を落としたはずです。
息子を死なせていたかもしれない────その事実は、これまで順風満帆、幸福そのものの人生を歩んできたヨンギョにとって、途轍もない恐怖だったことでしょう。
失神の原因は具体的には不明、ダソン自身に尋ねても「幽霊を見た」と繰り返すばかり。
ヨンギョの目に映る息子ダソンはもはや、ガラス細工のような「壊れもの」なのです。
(家政婦ムングァンはダソンをときに乱暴にすら見えるほど豪快に扱っているが、これをヨンギョが受け入れるのには時間を要したはずだ。あるいはそれをきっかけにして、ムングァンへの信頼が深まったということでもあるだろうか)


ダソンの問題行動も、「幽霊事件」以来、母親であるヨンギョがどこかよそよそしくなってしまったことに少なからぬ原因があるように思われます。

ダソンが奇行を繰り返すのは、「幽霊」の恐怖から逃れるためというのが第一の理由ですが、実際には母ヨンギョの気を引くためでもあります。
初登場時に射た弓矢の真の狙いはヨンギョであり、ときには挑発的に無視をしつつ、それでも彼は視界の端で常に母親の動きを追っています。

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口先だけでなく、いつ本気で自分の体を掴んで叱りつけてくるのか、あるいは抱きしめてくれるのか────「問題児」のダソンは母からの接触を言外に要求し、ひたすら無言で待っているのです。


このように考えていくと、「ジェシカ先生」がヨンギョの心をあっという間に捉えてしまった理由にも納得がいくでしょう。
彼女が指摘した「数年前の事件」は、ヨンギョ自身の抱えているトラウマでもあります。
何も話さないうちから、自身の最大の恐怖体験を指摘される────霊媒師が顧客の心を掴む方法に酷似しています。
(ギジョンがどのようにして「事件」の時期までをも当てたのかは不明。当てずっぽうか、ダソンからおぼろげにでも話を聞いていたのか)

「心のブラックボックスを一緒に開けますか?」と「ジェシカ先生」から尋ねられ、ヨンギョは崇拝の眼差しで頷きます。
彼女が開けることを切望しているのは、他ならぬ自分の心の奥にしまい込まれた、自らの「ブラックボックス」でもあるのです。


ヨンギョとダソンの微妙な関係は、ダヘの精神状態にも大きな影響を与えています。

姉である彼女の目からすれば、ダソンの「構って」行動の意図は見え透いたものであり、それに対して母親が右往左往している姿はあまりにも馬鹿げたものに映っているはずです。

思春期を迎えているダヘの言葉は、親に対して自然と辛辣なものになります。
それまで素直だったはずの娘から突然ぶつけられる批判的な言動は、ただでさえ混乱状態にあったヨンギョをいっそう困惑させたことでしょう。

ダソンだけでなくダヘもまた、頼る者も少ない未熟な母親ヨンギョの理解の範疇から外れつつあったわけです。
だから彼女たちは触れ合うことができなくなっているし、お互いの機嫌が良いときですら障壁が存在していて、正面から向かい合っての話ができていません。

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二人はにこやかな笑顔を浮かべて会話を交わしているように見えますが、その視線の先にあるのは鏡に映った相手の像です。


ダヘが自分の心情を素直に示しているのは、意外にもチャパグリ(ジャージャーラーメン)を巡る口論のシーンです。

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本編では具体的な内容が聞き取れないので、ネット上で参照できる撮影前段階での英語脚本を確認すると非常にわかりやすいものになります。

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ダヘ「信じらんないんだけど」
ヨンギョ「何が?」
ダヘ「私に聞きもしなかったでしょ。私だってチャパグリ、好きなのに」

ヨンギョが口元を拭う。

ヨンギョ「それは────」
ダヘ「ダソンが要らないって言ったら、チュンスクさんにどうぞって。次はパパに。それで私には尋ねるわけでもなく、結局ママが全部自分で食べちゃったじゃない。何よ、私のことなんて思い浮かびもしなかったってわけ?

これはおそらくテンポの問題から撮影されなかったか、あるいはカットされているかで本編には未収録の会話のようですが、ポン・ジュノ監督がいかなる心情をダヘに抱かせようとしていたのかが窺われる手掛かりにはなるでしょう。

「自分のことを見ていてほしい、もっと触れてほしい」という強い想いをパク家の子供たちが抱えていたことは、キム一家が彼らの懐に入り込むうえでの大きな隙でした。


キム一家が偽装に成功する理由

「見てほしい、触れてほしい」という願いにつけ込んだキム一家ですが、彼らの偽装がいとも簡単に成功し見破られることのない理由も、この願いの延長線上にあると言えます。

それは、「上の階層の者は、下の階層にある本質(真実)を見ようとしない」という、本作品における絶対的な法則です。

この法則は物語上で形を変えながら、幾度も幾度も、繰り返し主張され続けています。
キム一家による身分の偽装だけでなく、彼らの前任である運転手ユン、家政婦ムングァンをどのように追い出したのかに注目してみましょう。

ユンがパク社長の不興を買ったのは、ギジョンによって後部座席に残された女物の下着が原因でした。
パク社長とヨンギョはそれを、コカインでハイになった売春婦のものであると決めつけ、彼女とユンがベンツの後部座席でカーセックスに耽ったに違いないと勝手に推測します。
ギジョンの思惑通りユンは解雇されるわけですが、彼自身にはその真実の理由が通達されないため、釈明の機会は一切与えられません

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ムングァンについては彼女の持病である桃アレルギーを利用し、咳の症状をあたかも結核性の肺炎であるかのように見せかけていました。
ヨンギョは夫に事実が露見することを恐れるあまり、ギテクに誘導されるがままムングァンを即日解雇してしまいます。
やはりここでも真の理由は隠蔽されているので、結核患者ではないことを証明する機会がムングァンには全く与えられません

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そこには「上の階層の者が、下の階層にある本質を見ようとしない」という法則に加え、「コミュニケーションの一方向性」と言うべきものがあることに気がつきます。
上流にとっては自分たちの領域を守ることが最優先であり、下流にとっての真実が何であるかなど、さして問題ではないのです。
だから、釈明の機会は与えられない。
「遮断」は、あくまでも一方的な通知によって行われるのです。

この「コミュニケーションの一方向性と遮断」の要素は、Wi-Fi のただ乗りを上階の住人から一方的に遮断されてしまったキム一家という形で、早々とオープニングで象徴的に示されてもいます。

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ソファの上と机の下、コミュニケーションの断絶

上の階層が下の階層をどのような視点で見ているのかは、本作における唯一の濡れ場によって表現されています。

キャンプを中止したパク一家の突然の帰宅に慌てふためいたキム一家がどうにか事態を隠蔽し、チュンスク以外の親子三人が机の下で息を潜めている場面です。

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夫妻は決して机やソファの下を覗こうとはしないので、キム親子の存在はおろか散乱する食べ滓や酒瓶の破片にも気づくことはありません。

漂ってくるギテクの体臭を意識したパク社長は、ソファを車の後部座席、自身をユン運転手、妻を売春婦に見立ててペッティングを始めます。
ヨンギョもなし崩しにそれに乗っかりだし、「ドラッグを買って」などと囁いてもみせます。
つまり夫妻は自分たちが勝手に作り上げたユン運転手のカーセックスの幻想に性欲を刺激されているということなのですが、この場面は本作の中でもとりわけ「社会的な縮図」を感じさせる構図にもなっています。

たった一枚の安物の女性下着からパク夫妻は、ユン運転手のカーセックス、売春婦、コカインと、実に妄想をたくましく発展させていったわけですが、その根本にあるのは「下層=犯罪、売春、ドラッグ」といったステロタイプな連想と一方的な思い込みです。

この場面、キム親子は痛烈な屈辱を感じつつも机の下から脱出することはかなわず、ただじっと、目をつぶって耐えるのみです。
彼らはパク家で勝手に宴会をしていたので「犯罪」に結びついているのは事実なのですが、皮肉なことにその本質的な部分に対してだけは、パク夫妻は一切目を向けようとしないのです。

上層がステロタイプな固定観念で下層を断じ、勝手に興奮を覚えているそのすぐ足下で、当の下層の人間は屈辱に耐えながら息を潜めている。

これは善悪の問題ではなく、意味あるコミュニケーションが行われていない「断絶」の表現と見るべきでしょう。
視線は交わされず、素性は問いただされず、釈明の機会も与えられず、隔絶した階層の間にあるのは、流れ落ちてくる会話の断片と、力関係に基づく一方的な通知のみなのです。


悲劇はどのように回避されるべきだったのか

『パラサイト 半地下の家族』は、パク邸にまつわる三つの家族の衝突と、それによってもたらされた途轍もない悲劇についての物語です。

一部始終を目撃した観客の多くが終幕後に想像するのは、「この悲劇を回避する手段が、どこかの時点であったのだろうか?」ということでしょう。

クライマックスから一つ一つ遡っていくと、その転換点はあちこちに散りばめられていたことに気がつくと思います。

地下室に食事を持っていこうとしたギジョンがヨンギョに呼び止められなかったら。
罹災したキム一家が誕生日パーティへの参加を断ることができていたら。
チュンスクがムングァンの提案を受け入れていたら。
パク夫妻がユンやムングァンに本当の解雇理由を話していたら。
ミニョクがギウの身分を偽装するというアイディアを持ち込まなかったら。

ヨンギョが、自分と同じトラウマを負った息子を、ただ抱きしめることができていたら。


あまりにも多くの、そして容易であったはずのチャンスが「コミュニケーションの断絶」によって逃されていきました。
最初から自分たちの足下にあった「ブラックボックス」がようやく開かれたとき、「悲劇の種」はもはや摘み取ることが不可能なほどに発芽してしまっていたのです。




本稿については以上です。
『パラサイト 半地下の家族』のストーリー解析についても、作品から読み取れる大部分は書くことができたのではないかと思っています。
ただし盛り込めなかった小ネタもいくつかありますので、次回にはそのあたりの落ち穂拾いをやりつつ、本作に対する個人的な感想をちょっと記しておこうかと考えています。

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