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ダークグラス

架空の動画配信文字起こし。

良い映画をめます。
詰まらない映画も褒めます。

信じる・信じないは、あなた次第。
「今日も優しく、うそを語ろう」

バーチャル高校に通うバーチャル10代の美少年VTUBER、
京モウソヲ潟郎(きょう・もうそを・かたろう)です。

今日のお題は、ダリオ・アルジェント監督、
「ダークグラス」です。

映画配信サービスのユーネクストで見ました。

正直、評価の難しい映画でしたね。
なんというか、何を取っ掛かりにして評価すればいいのか、って所で困ってしまう。

別の言い方をすると、誰にお勧めしたら良いのか分からない。

あのダリオ・アルジェントが連続娼婦殺人サスペンス映画を撮ったとなれば、往年のアルジェント・ファン、あるいはジャッロ映画ファンにお勧め、と言いたいところですが、本当のところ、皆さんが期待するジャッロ映画要素は薄味です。

軽く「ジャッロ映画」について説明しますと、1960年代~70年代くらいの間に、イタリアで作られたサスペンス映画のことです。
(当時としては過剰な)残虐性とイタリアのオシャレ・センスが融合した、良く言えばスタイリッシュ、悪く言えば過剰でケバケバしい映画のことです。

この「ダークグラス」に、そういう「過剰な残虐性+過剰なイタリアン・オシャレ・センス」がコッテリと乗ったジャッロ味を期待すると、ちょっと肩透かしを食らうと思います。

たしかにスタイリッシュな絵作りで、そういう意味では「やっぱイタリア映画ってオシャレやなぁ」と感心しますが、それは、あくまでも2023年流の、アッサリとしたオシャレ感、いかにも現代的な21世紀のオシャレ感です。

ゴテゴテと装飾過剰な20世紀ジャッロ的オシャレじゃなくて、現代のヨーロッパ家具・インテリアにも通じる、ミニマル・デザインなオシャレ。

今風ではありますが、往年のジャッロ・ファンは物足りなく感じるかも知れません。

連続殺人鬼もの映画の見せ場であるべき殺人シーンも、
「噴き出す大量の血、鳴り響くシンセサイザー」
というジャッロ映画のお約束は確かに守られているのですが、かつてのジャッロに比べると幾分いくぶんアッサリ味です。

これは僕の勝手な主観ですが、現在のアルジェント監督は、ジャッロ映画に対する興味を大して持っていないように見えます。

そういう意味で、この映画は、
「往年のジャッロ監督が撮影した連続殺人鬼の映画」
である事は確かだとしても、ジャッロ映画そのものではない。
「ジャッロ映画」という期待(あるいは偏見)を持たずに見るべきでしょう。

現在のアルジェント監督が、もはやジャッロ映画に興味が無いと仮定して、では、今の彼は何に対して興味があるのか?
この映画で何を語りたかったのか?

いてジャンルに当てはめるとしたら「ヒューマン・ドラマ」という事になるでしょうか。
俗っぽく言ってしまえば、
「事故で盲目となった孤独な売春婦と、その同じ事故で親が意識不明の危篤状態になってしまった孤独な外国人少年との、疑似家族的な交流の物語」
を描きたかったのでしょう。

物語の初めの方に、ホテルの部屋で一戦交いっせんまじえた客と主人公(売春婦)との会話シーンがあります。
「君は強くて自立した素敵な女性だ。君に恋をしそうだよ」と満足げに言う客に対し、主人公の売春婦は、客の支払った金を手にして、こう言います。
「恋をしたら楽しめなくなる。あなたが好きなのは私の体よ。(お金を)ありがとう」

「うわ、このセリフ、オシャレー」と思わずつぶやきました。
これぞイタリアン・オシャレ。
まるでルパン三世の峰不二子みたいです。

ところが次のシーンでは、客の泊まるホテルを出て、ひとり自動車クルマを運転して自宅へ帰る主人公の横顔を映します。
しかも割と長めに。
仕事の疲れからでしょうか、彼女の横顔は、ちょっとお肌が荒れ気味です。
「美しき高級娼婦」の仮面を脱いだ横顔、疲れて肌の荒れた横顔を、意地悪なほどに長々と見せます。
(もちろん、これは意図的な演出です。わざとそのようなメイクをほどこし、そのような陰影を付けて撮影しているのです)

ここで強調されるのは、主人公の孤独感です。この疲れた横顔を見てしまうと、先ほどのオシャレ会話も、どこか空虚に感じられます。

都会で自立して働く孤独な女性が、ある事故(事件)をきっかけに、孤独な外国人の少年と出会い、ときに反発しあいながらも徐々に交流を深めていく。
このヒューマン・ドラマこそを、アルジェント監督は描きたかったのでしょう。

その「人間ドラマ」が飛び抜けて良作なものに仕上がっているかと問われれば、残念ながらいなと言うしかない。

そこが、この映画の難しいところです。
往年のジャッロ映画としても、ヒューマン・ドラマとしても、突き抜けていないのです。
どっちつかずの印象です。

ジャッロにもヒューマン・ドラマにも成り切れない、どっちつかずな感じを象徴しているのが、エピローグの空港シーンです。
連続殺人鬼サスペンス映画として見るとあのシーンは蛇足ですし、ヒューマン・ドラマとしては平凡です。

この映画の良いところも挙げましょう。

やはり、1にも2にも、そのオシャレ感でしょうか。
カットの構図やタイミングがオシャレです。
ただし、それは、過剰と洗練が同居するかつてのジャッロ的オシャレではなく、あえて言うなら「文芸映画」的なオシャレ感です。
具体的には、少し引いた位置から被写体を撮影したり、固定画角で少し長めに撮るといった特徴があります。

前述したとおり、室内の家具・調度品もオシャレです。
演者たちの服装も、いちいちオシャレです。
いかにも現代的な、爽やかとさえ言える、ミニマルあっさりオシャレです。

そして街並みがオシャレ。
もちろん舞台はイタリアです……が、イタリアと聞いて僕らが連想するような、あちこちに古代ローマの遺跡がそびえたつ重厚な石造りの街並みではありません。
いかにも近代的な、都市郊外の街並みです。
効率化された画一的なコンクリート製の街並みのはずなのに、やっぱり日本の郊外とは違います。
ハリウッド映画で見慣れたアメリカ郊外の住宅地とも違います。
イタリア製の大衆自動車にも通じるイタリアン工業デザインって感じで、実用的であると同時にオシャレです。

本筋とは関係ありませんが、ふと思ったことを1つ書きます。
「どこかへ行くためにバスに乗って移動するのは、何だか物悲しい」
バスって、本質的に悲しい乗り物なんですね。

映画を見終わって、
「これを勧めるとしたら、どんな人が良いだろう?」
と、考え込んでしまいました。

普段あまり映画を見ない大学生のグループとかカップルには、ちょっとハードルが高いと思います。

やはり、年に何十本、何百本と映画を見る映画ファン向けの作品でしょう。
「往年のジャッロ監督ダリオ・アルジェントの現在位置を知れただけでも満足」
と思えるような人たち向けだと思います。

では、今日はこの辺で失礼します。

「僕の言うことは全て、うそだ」
と、クレタ人が言った。
「今日も優しく、うそを語ろう」

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