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【読書感想文】海と毒薬

遠藤周作『海と毒薬(1957)』の感想文です。想像以上の内容の重さでした...読み終えた後のどんより感が取れない。本も薄く読みやすいと思って手に取ってみたら、まさかの戦争モノ、ノンフィクションでした。

ざっくりあらすじ

舞台は戦後間もない日本。冒頭での「私」は、持病のため近くの医院を訪れるが、そこで診療している勝呂医者を怪しげに思う。のちに、彼は戦争末期、九州の病院でアメリカ人捕虜の生体解剖を行った医者の1人であることが発覚する。小説の大部分は、その事件に携わった様々な人間による回想であり、それぞれの心の葛藤、苦労、そして不純さを描いている。日本人ならではの価値観と、そこから生じる道徳の欠如。私たち日本人としてのモラルとはなにか、そんな強烈な問いを投げかける小説である。

ノンフィクションという衝撃

冒頭にも書きましたが、本書は九州の病院で起こった、アメリカ人捕虜の生体解剖事件(=九州大学解剖事件)を舞台としています。この事件は世界大戦末期(1945年)に、福岡県の九州帝国大学(現九州大学)医学部にてアメリカ軍捕虜を「実験手術」目的で解剖し、8人を死亡させた事件です。実験内容は、血液に生理的食塩水を注入しその死亡までの極限可能量を調査したり、血管に空気を注入しその死亡までの空気量を調査したりと、捕虜の死亡が前提である実験内容となっています(ナチスレベルに怖くないかこの発想・・・)。施術に参加した医師・大学生らは戦後GHQの調査により、関係者5人が絞首刑、立ち会った医師18人が有罪となりました。

本書の背景

本書の背景を理解するために、日本の解剖実験の歴史について少し調べてみました。
恐ろしいことに、日本人による捕虜の生体解剖はこの九州大学解剖事件だけにとどまらず、代表的な例として旧日本軍731部隊というものが存在します。現在、日本政府は731部隊の存在は認めているものの、具体的な活動内容については「資料がない」とし、残念ながら詳細は不明のままです。証拠が国内でほとんど残っていないことから、戦後軍が証拠を消し去ってしまったのでしょう。唯一、2017年NHKにて、731部隊を特集した番組があります。

この生体解剖事件に関わった人たちは、九州大や京大、東大の医学部卒のエリート中のエリート達ばかりです。特に731部隊へ最も多くの研究者を出していたのは京都大学、その次が東京大学であったことがNHKの取材により明らかになっています。

中国国内のネットでは「歴史を直視した」と評価する声が上がったそう。目を疑うような実験内容であったり、生き地獄のような捕虜の生活であったり、かなり隅々まで徹底し取材されています。ここで書くと長くなってしまうので、続きが気になる方はこちらから。

なぜ彼らは解剖実験に参加したのか

時代背景を理解したところで、本書に話を戻します。
当時のエリートたちは、なぜ無残な解剖実験へ参加したのか。本作品で手術を手伝ったとされる大学生・勝呂の視点から見てみましょう。

実は彼自身、なぜ自分が実験を引き受けたのかわからなく、考えている最中も「どうでもいい」と投げやりな態度です。
彼の諦観は、実験に誘われる直前に、彼の患者である「おばはん」を手術によって死亡させてしまったことが大きく関連しています。この「おばはん」は、勝呂にとって初めての患者であり、彼女をどうにかして生きさせたいと考えており、彼の「生」に対する、最後の希望のようなものでした。しかし、この「おばはん」はのちに先輩医師からの提案により、実験台として無謀な手術をさせられ、死亡してしまいます。

「こう、人間は自分を押しながすものからー運命というんやろうが、どうしても脱れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神様と呼ぶならばや」...「おばはんも一種、お前の神みたいなものやったのかもしれんなあ」ー戸田

この患者が殺されてしまってから、勝呂は自分よりもより大きな運命というものに逆らうことを諦めてしまいます。「自分よりも大きな運命」というのは、実験手術を行おうとする上司の医者達、それを許す日本軍と政府、そして日本全体が戦時ムードで人の死を軽視する傾向にある、戦時中の状況そのものをさしているのでしょう。

「みんな死んでいく時代やぜ。病院で死なん奴は毎晩、空襲で死ぬんや」ー戸田、勝呂の同僚である医師大学生
「国のためだからな。どうせ死刑に決まっていた連中だもの。医学の進歩にも役立つわけだよ」ー浅井、勝呂の先輩医師

勝呂と同じ院内で働く同僚、先輩医師達でさえ、このように生死を軽視しています。彼自身は心底同じようには思っていないものの、「神」を失った勝呂は、結局彼らと同じ実験に参加してしまうのです。

「神なき日本人」の罪意識

このように、唯一の希望であった「おばはん」は勝呂にとって人間としての道徳心をかろうじて持ち続けられる、いわゆる戸田が言うような「神」的な存在であり、これをなくすことによって彼はどんどん抗えない運命へと流されてしまうのです。これは勝呂だけでなく、作中で登場する彼の同僚戸田も、他人の苦しみを理解できない、道徳心が欠如した人間として描かれています(そのような意味も含めて、遠藤周作はタイトルに、潮の満ち引きを表す「海」と言う表現を加えたのかもしれません)。

唯一対照的な人物として登場するのは、ヒルダという白人女性です。彼女は院長である橋本医師の妻として登場しますが、作中でこのような発言をしています。

「死ぬことが決まっても、殺す権利はだれでもありませんよ。神さまがこわくないのですか。あなたは神様の罰を信じないのですか」ーヒルダ

この発言は彼女のクリスチャンとしての態度を表しており、心の中には道徳心の舵を切る「神」を持っていることを示唆しています。戦時中で死ぬことになっている捕虜でも、彼らを自分たちの手で殺すことは許されない。一貫して強い態度でそう言い切る彼女の芯の強さは、周囲に流されてしまう勝呂と対照的です。この勝呂とヒルダの「生死」に関する対照的な態度は、遠藤周作自身がクリスチャンであったこと、また日本人ならではの同調圧力の怖さを顕著にあらわしているように思えます。

最後に

「日本人とはいかなる人間か、作家遠藤周作の念頭から絶えて離れることのない問いはこれである」

これは本作品の解説ページの抜粋ですが、まさに本作品のテーマと言えるでしょう。戦後GHQ制裁により戦時中のヒーローが犯罪者へと急転換された中、まさに「善と悪とはなにか」を日本人は見失っていた時代。宗教も神を持たない我々日本人は、果たしてどのように「ホンモノ」の良心、道徳心を持てば良いのだろうか。そんな遠藤周作の疑問、そして永遠の難題をこの作品は我々に問いかけています。

なんだか重い内容になりましたが、本作品はたったの232ページと、短編集なのか?と思うレベルの薄さです。その分、我々日本人が背けてきた歴史の薄暗い部分にはっきりと焦点が当てられています。今までの歴史の見方ががらりと変わるかもしれません。ぜひ手に取ってみてください。

参照サイト:

731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験〜(NHK取材)

NHKの「731部隊」番組、中国で反響呼ぶ(日経新聞)

九州大学生体解剖事件(Wiki)

日本の「米軍捕虜の生体解剖」、最後の生き証人が惨劇を語る

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