「踊れない」ダンサーと「できない」子供たち パート8~コンテンポラリーダンスと発達障がいの狭間で~


<コロナ以降の「普通」とは何か?>

過去や現代、自己や他者の間を巡り「普通」とは何か?を探る旅をしてきたこの文章も、いよいよ終盤に入る。

「普通」とは何か?私達に「普通」を強いるものは何か?今までのこの連載の中で、どうやら「普通」とは、自己と他者の間、あるいは自分と自分自身との間にあるらしいという事が分かってきた。
つまり「普通」は固定化されたものではなく、人と人との間で、あるいは自分自身の中でさえ、時間の経過によってその都度、変化しているものなのだ。
そして、その変化の「キー」となるのは、この文章でも度々登場してきた「想像力」という言葉だ。

想像力の作用によって「普通」は様々に変化していく。
「できない」に寄り添う想像力。「できなくてもいい」を考える想像力。
競争だけでなく、相手を理解しようとする想像力。社会の出来事を「自分事」にする想像力。
そして互いが互いを「ケア」し、自分自身を「ケア」する想像力。
それらのバランスや拮抗によって「普通」は人と人の間で、常に変動していく。

世界規模で、この「普通」が大きく揺らいだコロナ以降、その変動の度合いは増し、速度は更に加速したと言っていいのかもしれない。「想像力」を超える事態が発生したのだから、それに伴って「普通」も目まぐるしく変化するのも当然のことと言える。

そんな中「ニューノーマル」という言葉が一時期、取り立たされたが、実は私はこの言葉があまり好きではない。結局のところ、「ニューノーマル」という “新しい普通” を作っても、それが現実の変化の速度に追いつかなければ、「普通」との不具合は、今までと変わらないイタチごっこだからだ。

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