掌編小説 報われない子

 あの宏香が結婚したらしい、と風の便りに聞いたのは、私が五年勤めた省庁をうつ病で退職したその日だった。
 私は、言葉が出なかった。宏香が晴れ晴れしく新たなスタートを切った一方で、私は日々の激務から体調を崩し、本日をもって退職するまでに至ったのだ。

 同じ中学校に通っていた宏香は、「報われない子」だった。真面目に授業を受け、課題も毎日かかさず提出していたのに、成績はいつまで経ってもパッとしなかった。一度教科書を読めばその内容のほとんどを理解し、勉強した分だけ良い結果を残すことができた私とは正反対だった。
「報われない子」の宏香は、持ち前の愛想の良さだけでうまく世渡りしているように見えた。そして、私にはないその特性を、宏香は私より優位に立つために使った。
 息をするように嘘をつかれ、延々と自慢話をされ、正直言ってうんざりしていたが、友達だからと思いなんとか許そうと努めた。何度も歩み寄ろうとした。理解しようとした。それなのに、私を平気で傷つけておいて私以外の人たちには何事もなかったかのようにいい顔をし続ける宏香に腹が立ち、なんとなく見下されているような気がして、私も宏香のことを見下した。すぐにバレるような嘘をついて私を騙し通せた気になっている宏香も、そんな宏香に騙される同級生たちも、みんな馬鹿だと心の中で罵った。

 今思うと、宏香も必死だったのだと分かる。良く思われたい一心で分厚い仮面をかぶり、愛想を振りまいていた。弱さを悟られたくなくて、心を守るために武装していたのだ。
「凛子ちゃんは、おとなしいから」
 宏香は、口癖のように私のことをそう言った。おとなしいから何なのだ、と今なら言えたが、当時は何も言い返せず歯がゆい思いをしていた。
 たぶん、私は宏香に嫉妬されていたのだ。そう思うことにした。宏香が私にはない愛想の良さがあったように、私にも宏香にはないものを持っていた。ただそれだけのことなのに、宏香はそれが気に食わなかったのだろう。

 鬱々とした気持ちになりながらも宏香と友達を続け、すでに息切れしていたが、私にはずっとその自覚がなかったのかもしれない。ある日突然、緊張の糸がぷつんと切れた。
 「高校を卒業後、東京の大学に進学する」という私の話を聞いた宏香がひどく悔しそうな顔をした瞬間、宏香に対する複雑な感情が消え失せていくのが分かった。あぁ、やっぱり。そういう顔をするんだ。くだらない。
 地元で就職する宏香とは、もうさよならだね――宏香と別れた帰り道、心の中でそう呟き、スマホから宏香の連絡先を消した。

 それ以来、宏香とは一切連絡を取り合っていなかった。宏香が結婚したことは、共通の友人から聞いたのだった。
 宏香は今、幸せの絶頂なのだろうか。私を攻撃し続けた宏香が幸せなのに、宏香に歩み寄ろうとした私がなぜ今こんなにも泣きたい気分なのだろう。
 本当に、人生は割に合わない。消え失せたはずの感情が、蘇ってくる。
「消えてしまえ」
 この複雑な感情も、宏香も、全部消えてしまえばいい。叶うはずもない願いを、口に出さずにはいられなかった。