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感動は共有するものなのか植え付けられるものなのか

観察と鑑賞


今日は姉と映画を見てきました。
私は今漫画を描こうと、話の構成段階で足踏みしているので、どうしてもその視点から鑑賞してしまった。

感動は作り出せる


結論から言うと、そういう感想だった。そしてなぜだか少し寂しく思った。そりゃ相手はプロだし有名な監督さん、そして制作総指揮に尾田っちだもの。わかる。何年も最前線を牽引している現役の大作家。
ただ、何故寂しいかというと感動を共有出来たという体験ではなく、これ見せときゃ感動できるよねと言われた気がするからだ。

そしてこれは私の嫉妬だとも理解している。物語を作る上でのセオリーを私は身につけれていないから、それを仕事として完璧にこなして提示されて、改めてプロという肩書きに現実を見せつけられたそんな気分。

でも、それよりも寂しいなの方が勝る訳


とあるイラストレーターさんが言われた言葉に、描く事は感動を共有する事というものがある。私はその言葉にとても共感していて、感覚的にも納得している。
だから、手順を踏んだ制作側の綺麗な狙いに、これで感動して下さいと言われ、共感できず感動できなかった。嫉妬と寂しさと語り方を得たいという欲。そんなモノがないまぜに成っている。や、映画はホント良かったです。姉は素直に感動してたし。
乱文で訳が分からなくなってきた。、。

アンタ内観はどうしたよ?

花弥丸note3日目にして内観の仕方がまだまだつかめてません。なので明日は内観ノート(アナログのやつね!📓)書いて自分と繋がるのを得意としている従姉妹のお姉ちゃんに会ってきまぁっす❣️色々教わってくるぜ✨📓❤お楽しみにね!
₍ᐡ •̀ ̫ •́ ᐡ₎

おわり。

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