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伝わる心

音楽を聴きながら書いたので
流しながらお読み頂ければ幸いです。

最近紙粘土にはまっているのは
わかってもらえると思うけど

それは、最初誰かのお子さんが
紙粘土を創っている
そんなリール(動画)

それがとても楽しそうに見えて
やりたくなったのはある

何気に寄ったホームセンターで
どうしても意識してしまう
文房具のコーナーに紙粘土はあって
気づけば籠に入れていた

そんなことがきっかけだったりする

その子が作った
出来上がった作品を見れば
それは大人のプロが作ったものと
遜色がない!ということはなく
雑(笑)

そりゃそうだ。5歳にもならないくらい

だけど、今俺は紙粘土で
キャラクターをつくることが楽しくて
それで人形劇をするとき
まぁインスタだといいねは400前後

結構笑ってもらえている

もし、上手下手を意識したら
きっと俺は紙粘土をやらなかった
最初はとても残念な
きゃらをキャラが出来た(笑)

失敗も結構している
紙粘土の塗り方とかまぁ
そんな技術的な話はともかくとして

ねぇ俺達大人は
いつのまにか自分の見られ方を
意識してしまって
ともすれば体面を保つことばかり

そうやってどんどん
自らの可能性を殺してしまってる
そんな気がふとしたんだよ

アートというと大げさだけど
感動ってなんだろう?と思った
例えば、とても素晴らしく
クオリティーの作品を見て
ため息がでるけど

自分がやろうとまでは思わないだろう

俺の心を前に動かしたものは
5歳にもみたない男の子の楽しそうな笑顔

文章でもなんでもそうだけどさ
言葉を飾ってみたり
言葉を、言の葉に乗せてとかいって
気取ってみても仕方ないだろう

noteはね
それは上手な文章を書く人が多い
だけど気づくと
うまくなりすぎていることはないかい?

言葉って何かを考えるとき
それは、心を伝える手段の1つに過ぎない

それは写真でもいいし
それは絵でもいいし
それは紙粘土だっていいし
それは一生懸命プラモデルを
組み立てている様でもいい。

紙粘土の人形劇には
俺自身が楽しんで爆笑している様が
まざまざと入り込んでいる

笑ってしまったからNGではない
笑ってしまった方がむしろ
撮れ高は高い気がするんだよ(笑)

noteは主に文章の媒体だけど
気をつけないと
それが全てになってしまう怖さを
インスタを主に活動していたときに
再認識したことがある

これからの時代
きっと大切になるのは
奇麗に保たれた経歴ではない
誤字一つない洗練された文章ではない

何を喜び、何が哀しくて
何に怒り、何が楽しいか
それを伝えるの上手な人が
次に進める気がしたんだよね

大切なことは言葉を回せる事ではなく
心を伝達できることだろう

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