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会社から逃げた2回の離職。それでもわたしは自分を愛そうと決めた

こんにちは!

かがりです🌈


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社会人四年目になるわたしはいままで2回の離職を経験して、フリーランスになったばかり。

普通の事務OLがフリーランスになった一見華麗なるキャリアチェンジ。


人からそう見られることが多いが、そう綺麗なキャリアチェンジではない。


「いい会社を辞めたらかっこ悪い」

「3年以内に転職してはいけない」


まだまだ社会ではこのような価値観が根強く残っており、親をはじめ親族やまわりの人にこのように言われてきた人も多いはず。


また夢や期待を抱いて入社した会社で、うまくいかずに退社してしまった経験がある人は少なくないはず。


円満退社とは決して言えない退職を2回経験した。自分に忠実にはいるけれど、必ずしも正しいことをしたと言うことはできない。

それでも自分の決断を認めて、自分自身を愛していきたいと決意を固めたのでこの記事に残そうと思う。


割り切ることのできない感情や、理屈で白黒つけることのできない経験や思いが、人間としての深みをつくっていくはず。

また、過去のキャリアなんて、人生の1ページでしかないということ。

そうわたしは思っている。


そんな過去のキャリアのお話を今回はしていこう。


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就活生はマネキンの大群だった


時は大学4年の春。わたしは多くの就活生と同じようにリクルートスーツに身を包んで就活を開始していた。


化粧はうすめ、黒髪の前髪なしのショートボブ、パンツスーツにてきとうに家にあった黒のトートバックにヒールのない黒の靴。

これが、わたしらしく見えるスタイルだ。


どこに行っても女子学生はリ〇クナビのイメージ画像の就活生モデルのように、ポニーテールにスカートをはいた「ザ・就活生」ばかりだった。


やりたいことと就職がどうしても結びつかなかった


大学で勉強したことはNPO、ドキュメンタリー映画を通した社会問題、心理学。

面白そうな求人を見つけてもわたしの学歴や、新卒を取ってくれそうなところは見つからなかった。

会社員になるなら当たり前だが、「ひとつの職種や領域を任される」仕事がどうしても面白いと思えない。


何をやるにしても、決定権を自分でもって総合的な流れを全部自分でやってみたい。


いま思えばその価値観を持っているということは会社員に向いていないということだった。


はじめはどうしても正社員になりたかった


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「だったら、若いんだからフリーターでも挑戦してみればいいじゃん」

という意見もある。

大学入学時に多額の奨学金を抱えたわたしが、19歳で心に決めたことは

「新卒で必ず正社員になり、数年以内に完済すること」であった。


インターンから入社


たまたま参加した短期インターンをきっかけに、都内の一部上場企業の総合

職に。

でもこんなことになった。


退職後、軽くうつ状態になり2週間ほど過眠の状態が続く。

もしもあなたが不眠や過眠が続くようになったら、危険なサイン。

ストレスを感知して身体があなたを守ろうとしているのだそう。


空白の半月、それから


その後、復活したわたしはとある町工場で正社員の営業事務として新たなスタートを切ることになる。

家族経営のお手伝い状態だったので、教育という概念はない。とてもよくしてもらったが、入社直後からほとんど引継ぎのない状態でたくさん鳴る電話に戸惑ったり、受付として一人で来客対応したりとしている内に最初の夏が終わっていた。

その夏の記憶は8割方どこかへ飛んでしまった。

奨学金を完済した日


わたしは実家から会社に通った。社会人2年目の秋、奨学金を完済することができた。

入金後しばらくすると、日本奨学金機構から完済通知のハガキが。

正社員として働く意味が、ひとつ消えていった瞬間だった。

だんだん心がざわつき始めた……


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本気で転職を視野に入れだしたのは、奨学金を完済することができてほっとしていたの2年目の冬だった。

アナログな職場環境、経営状態が不安定な噂……

このまま続けていても、おそらく派遣やアルバイトと変わらないであろうキャリア。

「わたしは、もっと他の能力を生かせる仕事が必ずあるはずだ」

過ぎていく日々の中で、自分の声が次第に大きくなっていく。

会社のHPがボロボロだったことをキッカケに、休みの日に都内に出て、マーケティングセミナーに個人的に参加したことが、ひとつの転機になる。

個人が小さな会場で開催していたセミナーのため、参加者は10人以下。
講師とワンツーマンで話すことができたわたしはこう考えた。

「転職するなら、マーケティングもアリだな」

手応えを感じた日だった。


あやしい雲行き


それから半年もしないうちに、社で1人の経理社員が突然退社した。

定年近いベテランで、労務、総務などの役割も全て彼が担っていた。
社員が社長に言いづらいことも彼だけは話をつけることができ、絶対的に必要な存在だった。

「長くは、ここの会社にはいるな」

尊敬している彼が最後にわたしに残していった言葉だった。


その後経理のシステムが変わることになり、経理事務の業務をになっていた私の業務がいっきに増えた。

来るべきして訪れた転機


社会人3年目の冬となる昨年の年末に、女性向けキャリアアップスクールと出会い、入会することとなる。




↓↓↓わたしの学習についてはコチラ



学習した内容ももちろんだが、フリーランスになれるマインドへと流れがどんどん加速していく。



沈みかかった船


約2ヶ月後である今年の2月の後半、わたしを取り巻く環境は大きく変わることになる。

半数以上の社員がリストラされることになったのだ。

わたしは対象ではなかったものの、そこからの毎日は職場が常に混乱していた。


その頃から早朝に目が覚めて寝れない日々がはじまった。

あとで知ったことだが、これを早朝覚醒と呼ぶらしい。
不眠症の1種である。

「どうせフリーランスになるなら、この機会に辞めてしまおう」

と考え、会社に退職願を出した。

夏には退社をしたいという方向で会社と後日話し合いをすることになった。

不眠が続き、2週間目。3月に入るころに手と全身に水膨れのようなものができる。


痛がゆさと発熱で一晩中眠ることができず、地元の皮膚科へ。

診察後、すぐに総合病院を紹介され向かうと

「免疫力の低下などの原因でウイルスが肝臓に入り、湿疹ができた」とのこと。


丸1週間の休みをもらい、自宅療養することになった。

寝込みながら、仕事に穴を開けてしまうことと、スクールの勉強が止まってしまうことへの罪悪感が大きかった。

病名のあるものではなく、ストレスや免疫力の低下でウイルスがたまたま入り込んでしまったと医師から説明を受けた。


1社目を退職したときの経験から、

「心は大丈夫なつもりでも、身体に表れたら逃げてもいいとき」

という教訓を学んでいた。

退社できるまではやくとも3か月はある状態。日に日に焦りは強くなっていた。


なにかが弾けて、もうもどれなかった


4月。わたしの職場がある都内全域に緊急事態宣言が出された。

職場では不特定多数を接客、目の前の役所にて感染者確認のため閉鎖。

各店舗や施設では営業を続ける場合ビニールシートをレジに用意、従業員へマスクを着用させる、といった対策を講じている中会社からはなんの方針や対策もされることはなく、ただリスクにさらされ続けた。

会社のリストラの一件で、わたしの会社への信頼感はもうゼロに近かった。その上、この緊急事態に対しての対応。

余裕のない状態で、相手の素が垣間見えてしまう瞬間はこの数年何度もあったが、社員全体をあまりにもないがしろにしているように思えた。


社長に話をつけて数日休みをもらったあと、会社の運営方針と考えが違うのであれば雇用関係を維持することは難しい、とのことだったのでそのまま退職する運びとなった。


会社から見れば、わたしの後任者も決まっていないどころか人手不足もあり明日からの業務もこなすのが大変な状態であったので、迷惑極まりない社員であったことには間違いないだろう。


また、わたしがいなければ本当に困る、と以前から会社に言われていた。

いざ退社となってみたら全く引き止められず、それが本音だったのだな……と感じたのであった。


有給を消化して、5/13が退職日。
書類手続きのため1ヶ月ぶりに会社へ。

お客さんが出入りする日中の時間帯を指定された。

社内が慌ただしくしている中、さっさと手続きを済ませ、帰ろうとすると引き継ぎを頼まれた。


そんな話は事前に聞いていない。今日は有給中なので手続きをするためだけに会社に行く約束だったはずだ。


わたしの会社の話を聞いて心配していた父が着いてきていたおかげで、それからの拘束時間は1時間ほどで済んだ。


ひとりで行っていたら、何時間拘束されたんだろうか……

帰り際、父は怒っていたし帰宅後も母に「人が良すぎる」となぜか怒られることになった。


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複雑な感情がありながらその夜にしたツイート。


この日からニートとなり、同時にフリーランスへの道を歩むことになる。


具体的なお仕事についてはまた記事を出す予定!

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