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鉛筆と私

小学校の謎のルール、シャーペン禁止。絶滅に向かう野生動物の保護活動のごとく鉛筆を使うことを強要された小学生時代、私は文字を書くのが嫌いだった。何回書いても、お手本のようなきれいな字を書くことができず、それなのに毎日毎日新しい形の文字が増えていく漢字ドリルが嫌いだった。ただ線を書くだけと割り切ってしまえば、力技で終わらせることができる数少ない簡単な宿題であるのだけど、ぐちゃぐちゃな直筆で書かれたマスのてっぺんにある機械で書かれた精巧な文字に嘲笑われているかのようで、少し嫌な気持ちになった。

高学年になる頃には、自分の書いた文字がひと目で分かるほど特徴のある線を書くようになっていた。周りから「おじいちゃんが書く文字のようだ」と言われたときは、少しばかり誇らしい気持ちになった。生まれてから二桁の年月も同じ道具を使い続ければ人間少しは上達するようで、自分でも成長をが実感できて嬉しかった。

中学に上がり、周りで鉛筆よりシャーペンを使う人が増えても、私はしばらくのあいだ鉛筆を使い続けた。最初は鉛筆使用者の希少性とシャーペンの芯の耐久性が低いなどと理由をつけて半ば意固地に使い続けた鉛筆も、次第に長さの有限性や鉛筆削りの携帯性の悪さ、手間等からシャーペンを使うようになっていった。

大学に入り、クラスで鉛筆を使っていた友人がきっかけで、再び鉛筆を使うようになった。しばらくぶりの鉛筆は、数年間のブランクを感じさせない馴染みのある書き心地だった。社会人となった今もなお、日常的に使うのはボールペンと鉛筆である。

私が鉛筆に拘る理由は単に書きやすいからだけではない。鉛筆には替えることのできない一本の芯が真ん中に通っている。私の頭の中の考えや思想を紙に書けば書くほどに、芯は減り、鉛筆は小さくなる。一方で、紙には文字が刻まれ、自分以外の人にも共有することができる。書いて、削ってを繰り返し、鉛筆はだんだん小さくなる。力みすぎて途中で芯が折れてしまうこともあるだろう。その時は、また削っって芯を出せばいい。やがて、削れなくなるほど短くなった鉛筆は、その役目を終える。しかし、その鉛筆が文字通り身を粉にして刻んだ黒鉛は文字となり、新たな価値の創造につながっていく。

人間にも芯となる一本の軸が通っていて、その軸を削って磨いて、たまに頑張りすぎて折れてしまって、、そんなことを繰り返しながら、日々社会を支えるための役割を全うしている。

最後までご清覧ありがとうございました。

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