誠実

 今から約10年前、輪郭線でも引かれたかのようになぜか突然その実態が明らかになった。

 15歳の時から詩を書き始めて10年が経った頃、インターネット上の投稿掲示板に詩を投稿するようになった。その掲示板の利用にも慣れて、次にまた何か新たなチャレンジがしたいなという頃、詩の朗読、ポエトリー・リーディングについて知った。それからオープンマイクイベントに参加し、声で詩を表現することに熱中した。27歳だった。
 冒頭の10年前というのはちょうどこの頃にあたる。鬱屈した状態、やり場のない怒りや悲しみの取り扱いもわからないまま、乱暴に誰かを抱くかのように自分の全存在をぶつけた。こちらが抱いていたのではなく、詩に抱かれていた、包まれていたと気づくまでにはその後数年を要することとなる。
 他者や世界に向かう攻撃性、つまり利己ははじめ無限と思われた。だから無限地獄だと。しかしそれもいつの間にか鳴りを潜めることとなる。振り絞りだったのか、外の後は内へ、自己に向かう攻撃性が最後の叫びとなった。あれらは成長だったのかはたまた退化だったのか、とにかく段階を経て今の私となった。あのとき実態を輪郭線によって突如として知らされたそれは、つまり怒りや悲しみの由縁は、実家の部屋に置かれた古いぬいぐるみのように今では立体感をも得てどっかりと座っている。
 詩友にも話したことだが、38歳になり大抵の怒りや悲しみ、理不尽な出来事にもそれなりに対応が出来るようになった。精神的にもはや生きるか死ぬかというような激しい感情にとらわれ追い詰められることも減った。一方現在の自らの状態に言い表せない不安、というよりは寂しさを感じるようになった。

 (私はこれでいいのだろうか)

 そういう寂しさ。

 とどのつまり、自らを塗り替えるのは自らだと思う。この寂しさを埋め合わせるものが何なのか、今はわからない。しかしながら38歳の今の私にもまだ試行錯誤出来ることがあると改めて知った。結果どうこうではなく、足掻くこと、それ自体が生きることだと思う。いつか言った。「生まれて来た以上ホームランが打ちたい」と。命を燃やしたい。命を燃やす。
 ただ一つ、自らの生に誠実であれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?