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本気の4年間でした。


昨日、学生陸上を引退しました。
そして、私は競技引退すること、ここに報告致します。


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今まで本当に本当に、ありがとうございました。


関西学院で過ごした4年間は、


正真正銘、嘘偽りなく、


本気の4年間でした。


本気の4年間だったからこそ、最後は溢れ出した感情で、涙を抑えることができませんでした。


総合優勝を逃したのは、本当に悔しかった。
引退試合が最後の1500mにできなかったのが本当に辛かった。


世話になったマネージャーに
総合優勝で恩返しすることができなかった。


悔いが残る最期になったけれど、振り返ってみると、


関西学院に入学が決まってから、
ほんと、陸上のことしか考えて来なかったバカでした。


陸上に生かすための講義を履修したり、空コマでコンディショニングルームにこもり、黙々とストレッチしたり、カフェインは普段から摂取しないようするなど、練習以外の時間も陸上競技一色でした。


そんな4年間をさらーっと振り返って行きたいと思います。


大学1年


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挫折から始まった学生陸上でした。


関東への進学を希望していた私にとって、名門NUからスポーツ推薦を頂けなかったことは、本当に辛く、悔しい出来事でした。その上、近畿地区で競い合ってきたライバルは、3人とも名門NUに進学。


当時尖っていた私が、
こんな事実を受け止めることができたはずがありません。


それから約2年間の原動力は、


大学スカウト全員、後悔させる。


これだけでした。
(これは流石に尖りすぎw)


関西学院への進学が決まってからも、
地元のHoglelというストレッチマシンが置いてあるスポーツに特化した整骨院に通い詰め、身体操作を見直しました。主に、前鋸筋の扱い方を徹底的に叩き込んだ。それだけでなく身のこなしを高めるために、身体のしなやかさを追求した。


当時の私の考えでは、ウェイトトレーニングは一切しない。筋トレ < ストレッチというイチローみたいな考えを強く持っていた。



これがのちに、私のパフォーマンスを飛躍させた。前鋸筋がどれだけ大事かというと、下が腸腰筋、上は前鋸筋という認識を持っていたくらい、大事でした。


迎えた十種競技の初陣では、6486点をマーク。
その後のU20日本選手権では、Jr.規格で6998点で2位。
8月の学連で一般規格にて6901点、棒高跳4m30が決定打となり、全日本インカレB標準を突破した。


流石に笑みが溢れた。


こんな奴がいたのか。


そう大学スカウトに思わせることができる。
クゥーーー。


自らをダークホース、関西の秘密兵器と認識し、ここまできた。やっと、強さを証明できる。


そんな矢先、、、


全日本インカレ前の石川夏合宿にて、棒高跳で落下。右足腓骨を骨折した。


地元に帰り、整形外科でギプスを巻かれながら、号泣した。めちゃくちゃに泣いた。


号泣したのには理由があった。高校3年生の時に重度の捻挫で全国インターハイは8位。


高跳と幅跳の踏切は、逆足で県、近畿、全国と戦い抜いた。万全の状態で競技ができず、自律神経が乱れ、心と体はズタボロな状態でインターハイ路線を駆け抜けた。


結果が振るわなかったから、大学1年時にかける思いが強かったんです。


出場を逃した全日本インカレ2018では、等々力の電光掲示板に刻まれる自分の名前とDNSをただただ眺めるだけの、大会となってしまった。

というのは嘘で、

スタンドで10種目を観戦し、東海順天堂学芸日大の関東組の動きや、コーチ席でのやりとりをガン見し、盗聴しまくる、非常に有意義な大会にした。


大学2年


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冬は翔大と死ぬほど走った。


しんどい練習が嫌いな僕は耐えきれず、なぜこの距離を走るのかも分からず、走らされた450mの後、


「これ意味あんのか」


と、グランドで大声で叫んだ。(そろそろ丸くなってくれ俺^_^)


迎えた4月の大阪インカレでの十種競技。


誰よりも走ってきた自信がある。十種競技の400mで日本トップクラスの黒田大先輩にも勝てる気しかしなかった。

勝つイメージしかせずにレースに臨んだ。


結果は、惨敗オブ惨敗。


まるで勝利したような笑顔の写真を貼り付けてますが、1秒以上離されている。


この時の顔は、黒田さんやっぱホンモノや。の顔。


#それはさておき


シーズン序盤かつ復帰戦にしては7000点ペースで刻めていたが、迎えた棒高跳では着地でバーを踏み、捻挫。


かと思いきや、


右足腓骨を骨折していた。


再び、ギプスを巻かれることとなったが、この時は、落ち込むというより焦っていた。


シーズンの目標をすぐに立て直し、全日本インカレ1本に絞る。


復帰戦の兵庫選手権では、6871点で優勝。


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翔大さんと全日本インカレに出場するため、私は、A標準を切らなければならない。


迎えた学連記録会at 服部緑地


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鼻を骨折しました。

(ほんまになんで?)


高跳の背面着地で、自身の左膝が顔面をクリティカルヒット。鼻は陥没し、1発セルフKOを喰らう。


人生初の全身麻酔と、人生初オペを体験し、全日本インカレを迎えることとなった。


結論から言うと、

7062点で5位入賞を果たした。


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シーズンをコーチと共に振り返ったが、入学時に設定した目標より300点低い現状を再度認識。


大学3年生での結果は、競技を続けるためにも必要不可欠であり、3年目が岐路になるという自覚。


さらに、ユニバーシアードへの選考が大学3年の全日本インカレから行われることを確認。


4時間のミーティングを終えた。長げぇと、翔大から怒られた。(翔大ありがとう^_^)


しかし、この4時間で自分の現状を徹底的に洗い出し、どんな練習がどれだけ必要なのかが明確になっていた。


それから私は、ユニバーシアードで日の丸を背負うためにオリンピアンの元へ向かった。


どんな練習を、どんな原動力で、どんな量やってましたか。


返ってきた言葉はこうだった。


「死ぬか思うくらい練習した」


なるほど。この一言で、私にとっては十分でした。


死ぬくらい走ったらええんか。

こうして鍛錬期の幕が開けた。


大学3年


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オリンピアンの一言で、私の行動はガラッと変わりました。


1日に約6時間(練習、ウェイト、初動負荷、メニュー作成)陸上に捧げても、全く何も感じないほど、夢中になっていました。


しかも、自分は努力している。とは一切思っていませんでした。


そしてグランドにいるときは、
ずっと一人で行動し、自分とだけ向き合った。


時には、同期の声かけをシカトすることもあった。(ほんまにそろそろ丸なろか^_^)


だから僕にとって練習場は、楽しい場所ではなく
まさに戦場でした。


この冬の練習が実った要因は一つ。特に練習量が多かったわけではありません。トレーニングの量を増やしたわけでもありません。


練習以外の意識が変わった。


明日の練習を100%の状態でトレーニングをするための行動をし続けました。


春にコロナが来て、


ちょっと一休みして、


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9月の全日本インカレを迎えた。


7653点で優勝。


8種目自己ベスト、史上初関西勢初制覇、関西学生新記録、当時の学生歴代7位、学院記録を樹立しました。


夢のユニバーシアード標準も、突破した。


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混成選手なら、この絵面がいかにヤバイのかお分かりいただけるだろう。


高校時代から全国に名を響かせ、大学でも活躍し続けていた大将軍たちが生きるこの時代に、学生日本一になれたことは、一生の財産でした。


続く日本選手権では、7376点で7位入賞。


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続く関西インカレは7347点で優勝。


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たくさんの写真。

たくさんの取材。

たくさんの記事。


メディアに取材いただく機会が一段と増えた。


次の目標は次の目標は?オリンピック?オリンピック?社会人でも続けるの?


有名になりたいと言う夢を少し叶えることができた。


反面、何かが狂いはじめていることをこの時はまだ自覚していなかった。


結論私は、この結果に満足していた。


なのにメディアは口を揃えて、次に向けてを要求してくる。


メディアが悪いと言いたいわけでは全くありません。


自分の本心と、口から出る言葉が乖離し始めたんです。就活が楽しくて仕方がない時期に、オリンピックを目指します!と発言する自分がいた。


こうした取材が幾度となく続いた。


大学4年


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最高学年になった。


自分の名前の前には「主将」という文字が付くようになった。


それを踏まえての取材も増えた。


チームのために、チームのために。


自分に矢印が向いていないことに気づかずまま、シーズンを迎える。


コロナも勢いを増し、思い描いていた主将生活にはならない日々が続いた。


初のテレビ取材の途中に、ユニバーシアードの延期も発表された。


5月関西インカレが関西チャンピオンシップとなり、対抗戦は延期となった。


1500mの後にマスクをつけなさい。ユニフォーム投げ禁止。声出し禁止。


グラウンド60分、最大20人まで。


ありとあらゆるものに規制がかかり、感染症対策に拍車がかかる。


チャンピオンシップの前に、ついに体に支障が出た。


ハードルが上手く飛べなくなった。円盤のターンで視界が歪む。何かがおかしかった。


病院を駆け回っても身体中どこにも異常はなかった。


周りの期待は変わらず高いまま。心と体がどんどん乖離していくのがわかった。


チャンピオンシップは6945点で優勝。


なんとか乗り切った。


そこからどんどん心身が崩れ、体重は3キロ落ちたまま、6月の日本選手権を迎える。



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右足舟状骨疲労骨折。


とどめを指すかの如く、医者には君このままやと競技できひんよ。手術せな治らん。と告げられた。


先生、9月に最後に全日本があります。


わかった。1ヶ月休んで徐々に動いていきなさいと、見たことないくらい大きな痛み止めを処方してもらい、超音波、衝撃波治療を勧めてくれた。


この時、骨折には外傷と障害の2種類があり、障害は保存療法が効かない(ギプスをつけても治らない)ことを知った。


それから足だけでなく身体にも異常が出始めて、毎日病院をショッピング。


治療どころではなくなっていた。



そんな僕に母は、


「もう頑張らなくていいんじゃない?自分のために頑張りなさい」と言った。


気づいたら泣いていた。


言葉では説明しきれないが、自律神経失調症を超えて、あれは鬱だった。


周りの期待値と自分の現状に大きなギャップが生じている状態は、心身に良くなかった。


だから僕は、周りの期待に応えるのをやめた。

誰かのために頑張ることをやめた。


そして怪我は治らず、最後の全日本インカレを迎えた。


現地で仲間のサポートに帯同する予定だったが、直前でコロナに罹患し、療養先のホテルで全日本インカレを迎えた。


延期された関西インカレには、十種競技で出場できなかった。


散々なラストイヤーになった。


報われた時間は本当に一瞬で、たくさん泣いた4年間だったけれど、


泣けるだけ、本気だったんだな自分。

よく頑張ったよ自分。



最後に



僕は関学陸上部で陸上競技ができて、本当に幸せでした。


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関西の大会では、高校の同級生がアナウンスで僕の名前を呼び続けてくれて、幸せでした。
かつて、グランドで一緒に走っていた同級生が、大会運営側に周り、川上ヒデルを呼び続けた世界線は、どこの誰が見ても、泣くだろうなぁ。笑


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競技場を走り回ってくれて、毎試合、氷を控え室にこまめに届けてくれる、選手思いの最高のマネージャーのもとで競技ができて、幸せでした。


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僕を1番慕ってくれて、突き放しても犬のようについてきた可愛い後輩と一緒に2年間競技ができて、本当に幸せでした。


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最後に、僕が関学で1年目から結果を残せたのは、身を削ってまで私に道を作り続けてくれた、大先輩翔大さんのおかげ。翔大の後輩で、幸せでした。



お父さん、お母さん、


誰よりも応援してくれて、ありがとう。

毎日アスリート飯を作ってくれて、ありがとう。

欲しい靴を全部買ってくれて、ありがとう。

泣いている時そばにいてくれて、ありがとう。

毎試合応援に来てくれて、ありがとう。


最高のお父さん、お母さんのもとに生まれ、10年間競技ができて、俺は本当に幸せだったよ。


ありがとう。



陸上最高!!!


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引退!!!

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