丑年/「からむ」/”発芽”にむかって
こんにちは。
2021年になりましたね。
明けましておめでとうございます。
突然ですが、皆さんは年賀状などはお書きになるでしょうか。
昨今はもうLINEやSNSで挨拶を済ませ、年賀状は書かない。という方が増えてきているでしょうか。
かくいう僕もその一人なのですが、昨年から年賀状のデザインはライフワーク的に始めて続けよう。と思い立ち、誰に送るでもない年賀状らしきそれを作成しています。
そのため今年も「デザイン」と言えないまでも、それ用の絵は書こうと思い作成しました。今年は「丑年」ですので、
それをどのように絵にするか。やはり「牛」だろうか。
などとつらつらと考えていたのですが、手がかりとして「丑年」の由来などを遡ってみると、今の社会の状況などに重なる物語などが見えてきて、とても興味深かかったので、そのことを中心に今回は書いてみようと思います。
※インターネットを中心に調べた内容を基にしているため、事実とはすこし異なるかもしれません。それも含めて指摘のコメントなどいただけると嬉しいです。
「丑」とは
丑年の“丑”は「漢書」に遡ると、”紐/からむ”に由来し、
芽が種子の中で生じてまだ伸びることができない状態
を表しているそう。種子の殻を破れずに、芽が殻の中でからまるような状況が眼に浮かぶような状態ですね。
それはなんだかその「芽」がもがき苦しんでいるような、すこしかわいそうな状態とも見えるかもしれません。
そう思った時、ふと今の世の中の状況がオーバーラップしてくるような、そんな気がしました。
それはまさしくコロナ禍で、家の中で閉じこもっているしかなくなった、人間の苦しみやその状況に投影できるかもしれない。と思ったのです。
突然の、前代未聞の疫病に見舞われて、家に閉じ籠るしかなく、その先も見えない中で、さまざまな感情と内省しながら向き合う。
まさしく感情に「からめ」とられる状況があるのではないか。そんな風に思いました。
「からむ」のその先に
でも、その時ふとすこし違ったことも感じました。
その「芽」は、たしかに殻の中でもがき苦しんでいると思います。
でも、ただ苦しみもがいているだけでなく、確実に次の"発芽"に向かって成長しており、”からむ”状態はそのために必要なもがきなのかもしれない。
そんな風にも取れるのではないか。
そうであるとするならば、我々人間もその先に何があるかはまだまだみえていないけれど、
未来が開ける、希望ある未来が”発芽する”ことに向かって、いまはそのためにもがいている状況なのではないか。
そう考えると、いよいよこの「丑」という物語に、今の我々の状況がより重なって見えてきました。
さまざまな手法や技術を駆使して、さまざまな仕組みや決まりを基準にして、今より希望に満ちた未来に向かってもがいている人間。
それが見えたとき、今年の年賀状のデザインはこの「種の物語」にしようと決めました。
「発芽」に向かって
その殻は、「家」だけではなく、「これまでの社会」みたいなものかもしれないし、
さらに、それまでの自分を覆っていた「自分という殻」ともとれるかもしれません。
そうしたときに、その「からむ」を、新年を迎えて新しい自分に向かって「自分の殻」を破るための苦闘とも取れるかもしれない。と思った時、
その苦しみが実って、いつか芽として「発芽」すればいいな。
ととても単純ですが思いました。
なので、今年はその「発芽」をそのまま物語として絵にしようと思いました。
パラパラ漫画のように、
ますは種子の「殻」を描き、
その中から、小さな「もや」が生まれ、
やがて殻いっぱいにそれが「からみ」、
しかし、その殻いっぱいのもやを、その殻自体を、突き破って芽が「発芽」する。
そんなシンプルな物語と絵です。
とてもシンプルだけれど、力強い絵がかけたのではないか。と思っています。
「発芽」した先に
最後にもう一枚、それに加えて絵を書きました。
そうして、「家」や「社会」、あるいは「自分の殻」といったもの壊して発芽し、根を生やし成長していく。
それはとても希望に満ちていると思う反面、その先にはまた新たな世界はまだまだ広がっていると思います。
それは、「発芽した種子」はあくまで「土」の中の一粒にすぎず、その周りには多種多様な土の環境・生物が存在するということに重なると思いました。
それも含めて、最後のこの絵も含めて書くことが必要だと思いました。
新しい希望に向かって
この最後の一枚も含めて、今の状況をうまく絵としてデザインできたのではないか。と思っていますが、いかがだったでしょうか。
今はまだまだ先が見えない状況ですが、すこしでも希望に向かっていける小さくても確かな「表現」になっていればいいな。と思います。
次の希望や新たな自分に向かって。
改めて、明けましておめでとうございます。