氏、『森見登美彦』を語る

 僕が初めて森見登美彦を読んだのは中学2年の時だった。確か『夜は短し歩けよ乙女』が映画化された頃で、教室の学級文庫にあった原作を何も知らずに手に取った。どんなものか1、2ページ覗いていると、先生に「あんたが読むもんちゃうで」と水を刺された。おおいに腹を立てたことを覚えている。当時は「そんなこと言わんでええやんけ」と思ったけど、今なら先生が言うこともわかる。その時僕が愛読していたのはあさのあつこの『バッテリー』とかで、僕は結構ちゃんとした中学生だった。森見登美彦は多分、ちゃんとした中学生が読むものではない。一時は恥ずかしげもなく「森見登美彦になりたい」と思った今でもその認識は変わっていない。ちゃんとした中学生は森見作品を読む必要がない。

 ただ、当時の僕はそんなこと知る由もない。プライドを傷つけられたと思った僕は家で文庫本を開いた。絶対にこの本の面白さを理解してやる。そう息巻いてページをめくった。しかし今思い返すとそれが良くなかった。

「なんやこれ」

 全然分からなかった。 

 何が面白いのかはもちろん、話の筋も十分に理解できなかった。第一部を読み終わった時に「これ短編集なんか」と思ったくらいである(断じてそんなことはない)。先生の言ったとおりになって悔しかったが、面白くない(大変失礼)ものを読み続けることはできず、僕は森見作品に打ちのめされた。

 そもそも登場人物というか、登場するものが基本的によく分からなかった。李白老人ってなんや、電気ブランとか偽電気ブランとか、これは話とどう関係あるんや。なんでズボンを脱がされる必要があるんや。この話はどこに向かってるんや、そんなモヤモヤばかり散らかって、一つも回収されずに終わる。いや、大学生活を終えた今では回収されたと思える部分もあるが、当時の僕にとってはそれは断じて回収ではなかった。頭の硬い読書少年であった。樋口師匠って結局なんやねん。誰か教えてくれ。


 僕が再び森見作品に触れたのは大学生の頃だった。お馴染みの京都大学で1年ほど過ごし、そろそろ読んでもいいか、という程度の思いで手に取った。

「なんやこれ」

 2度目の感想も中学生の時と変わらずこれだった。でもこれだけではなかった。

「おもろすぎるやんけ」


 何が僕の森見作品への感じ方を変えたのだろう。ごく単純に言えば、登場人物と同じ年齢になって作品に没入することができるようになった、ということになるだろうけど、それだけではない気がする。というか、登場人物と同じ年齢になる、つまり大学生になれば森見作品を理解できるようになるという事実は、何かもっと深い意味を持つように思える。


 大学生というのは実になんとも言えない時期である。

 中高生の時のように、人生の難しさについて全く分からないわけではない。それでも、社会に出て本当に現実を見たわけではない。世界の仕組みが分かるようで分からない。自分が普通なことをそろそろ受け入れなきゃいけない気がするけど、やっぱり自分はおかしい気がする。

 そろそろ社会というものの中に出る準備をしたいのだが、具体的に何かするとなると頭がぼーっとしてくる。その気になれない自分がダメなようにも思えるけれど、そういう気にならせてくれない社会が悪いようにも思える。そうは言ってもタイムリミットは迫る。周りの学生は誰も彼もちゃんと社会に出る準備をしているように見える。それが正しいようにも思える。では自分もそろそろ、という気持ちになるのかというと、やはりそういうわけでもない。

 そんな堂々めぐりの末にある結論に辿り着く。

「自分だけが正しいのではないか?」

 こうして森見作品を受け入れる土壌がようやく整う。


 森見作品には理由のないもの、分からないものが溢れている。僕にとってはそれが森見作品のしょうもなさであり、面白さなのである。理由はないけど、面白い。森見作品を楽しむためには、理由のないものを受け入れる度量の広さが必要になる。そう言えば聞こえは良いが、逆に言えば、理由のあるものを拒否する度量の狭さが必要になる。

 理由のあるものが面白くてたまるか。

 そんな感覚が森見作品を受け入れる土壌の重要な肥料になっているように思える。肥料の多くがそうであるように、肥料そのものはそれほど美しいものではない。

 

 理由とかではない。存在するのだ。神様でも、天狗でも、もしかしたら大学八回生でもないかもしれない。しかし樋口青年はそこに存在し、あまつさえ師匠とさえ呼ばれる。その胡散臭さがひっくり返り、神秘的な事実さえ感じられる。それは樋口師匠に限られず、人間存在に関する神秘的かつ深遠な事実である。そうだ、我々は皆理由なく存在している。樋口師匠に何か存在する理由が必要なら、その事実を体現することであろう。最近、『四畳半神話大系』を読み返していたら、樋口師匠の登場シーンで泣いてしまった。きっと疲れているのだろう。


 森見世界は理由のないもので溢れる。それらが存在するのは一言、「面白いから」である。それ以上でも以下でもない。李白という老人が夜の木屋町を支配していること、その老人がズボンを集めていること、電気ブランを作ろうとして奇跡のような間違いの末に「偽電気ブラン」が生まれたこと。それらはただそれ自体で面白いから存在する。小説の中に面白くて分からないものが溢れる。理由がないのに面白いものが生まれる滋養は、やはり著者の尽きることのない「妄想」であろう。


 作品中、主人公は様々な妄想をする。それを読む時(読まされる時)もちろん妄想自体が面白いのだが、その妄想をしなければいけない主人公を思うと、より一層楽しめる。妄想でもしなければ生きていけない時期が自分にもあった気がする。

 多くの作品を読んでいるうちに、そんな妄想を生み出す主人公もまた誰かの妄想の産物であることに気づく。そんな大元の妄想を生み出している人物こそ森見先生である。森見先生の精神状態を思うと面白さも一周して泣けてくる。なぜこんなことを考えなければならないのか。でも、確かにこんなことを考えなければならない夜があった。大学生とはそういうものである。

 そうは言っても、これらの妄想が不要であることに変わりはない。


 僕に取って森見作品は分からないのに面白い妄想に出会える場所である。読んでいると、大学時代を通り越して少年時代に戻っている気分になることがある。そういえばあの頃、身の回りに分からないものが溢れていた。分からなくて面白いものが溢れていた。

 だから僕は、身の回りに分かるけど面白くないもので溢れた時に、『太陽の塔』のページをまた開くのである。

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