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⑤カイロプラクティック大学時代

40歳まで5年間大学で勉強した。楽ではなかった。結婚もしていたし、家のローンもあった。これに現地の家賃や学費そして国民年金も払い続けた。「俺」もアルバイトをしたし、家内も早朝から夜遅くまで働いて力を貸してくれた。やはりこの時も家族の支えがあった。


カイロプラクティックの大学は、日本の理学療法士科の専門学校よりレベルの高いものだった。

国際基準では、レントゲンも撮るし、患者の背景がさまざまなので人種や文化や宗教なども考慮に入れなければいけない。また簡単に裁判が起こることも日本とは違う。

検査や問診の中にフェイクの検査を組み入れたりもする。それは何故かというとゲームプレイヤーという初めから裁判目的の人が紛れていることがあるからだ。

日本のようにすべての責任は、医者にあるという感覚では通用しない。


大学に入った当初はすごく頑張った。たくさんの患者を置いてきた。年齢的にも甘えた事を言ってられない。



そして大学のカリキュラム以外にも、在学中にウサイン・ボルトもケアを受けていたアクティベーターメソッドの認定も得た。

Dr.ナンブドゥリパッドのアレルギー除去療法の国際上級認定も取得した。

そしてニューロパターンセラピーの認定も取得した。

そして大学に入った第一の目的である、キャリック神経学も学ぶ事が出来た。


そんなに頑張ったのは、学ぶこと自体楽しかったという事もあるが、裏切った患者さんたちに罪悪感を持ち、なんとか期待に応えたいという気持ちも強かったからだ。


そんな中で、臨床でも人生においても先輩で、学外で出会った河野先生、菊地先生、建部先生(アイウエオ順 笑)この3人には精神的にとっても勇気付けられた。当時だけではなく、今でもだ。それぞれ別々の地域に住んでいるが、この3人の先生はいつも心の支えとなっている。3人とも強面だが根底に優しさが滲み出ていた。


そして学校では、「俺」は3年生から4年生になる時に、父が病気になったので休学することにした。自分としては年齢のことを考えると1年でも早く卒業したかったのだが、治療費も必要だし、これもやむを得ないと思った。


早く開業して父に楽をさせてあげたいと思っていたが、結局それは叶わなかった…


この学校では1人だけ尊敬でき、恩義を感じている同級生がいる。


彼は週に4日学校が終わったら家に帰らず、そのまま夜通し働き、またそのまま学校に来るという生活をしていた。

朝は学校が開くまで近くの公園のベンチで浮浪者に混じり仮眠をとり、学校に入っては水道で頭を洗ったり身体を拭くということをしていた。


授業中はよく寝ていたが、彼の事情を皆は知っているので、彼の事を誰も悪く思わなかった。


「俺」が今日を最後に休学をするという日に、学生クリニックから帰ってきて着替えようとしたとき、「俺」の服の間に彼が封筒を置いていってたことに気がついた。


封筒の中には手紙が入っていた。


「これで帰りに飯でも食って下さい」


こんなことが書いてあり、なんと現金も入っていた。「俺」は泣きそうになり、こう思った。


…勉強できなくても、こんな心がある方が良い…


それから目くじらを立てて勉強をするのがバカらしくなった。


彼のような心を持てるように、これからは意識していこうと決心した。


そうして5年が過ぎ、無事に卒業した。

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