ものを書き続けて倦んだ時、小説を何気なく手に取って読むのがいつしか愉しくなった。例えば、チェーホフの小説の次のような一節。
こういうくだりを物語からなかば切り離して味わう。厳冬の窓越しから射しこむ陽光の清々しさを思いやり、サモワールが沸騰する響きを想像する。そんな風い味読していると、頭の中がスッとするのだ。
また、こういう気散じの読書をする際に古典はうってつけで、例えば源氏物語の「紅葉賀」巻は幾度読んでも感に堪えない。
天上の楽のような調べが淡く、薄い霧のように身を包むような心地良さが感じられてしまう。
もちろん近代文学も捨てがたく、泉鏡花の文藻はやはり素晴らしい。
物語の筋や内容は覚えているこれらの話を、何となくページをめくり、そこで出会った箇所をしばし読み、言葉の調べそのものを味わう。その味わいは感情のままに昂ぶり、ふとした瞬間に消え、感触だけが残る。空から降ってきた淡雪が頬に触れるや溶けて消えてしまい、冷たいものが肌をかすめた感触だけが残るように。
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下の写真の猫は、何となく散歩に出かけた時に出会い、撮ったものだ。
最近、「何となく」という気分にいかに臨み、いかに醒めたまま流され、味わいつつ愉しみ、戻ってくるか。最近、その難しさを感じている。
「何となく」を、いかに待ち受けるか。
明確な意志を持って受けとめ、試行錯誤を経て学び、自身の糧とすべく努力を傾けるのではなく、いかに素直に、淡々と受けとめ、味わうことができるか……パラパラと頁をめくった文章の綾に抵抗なく驚き、入りこみ、ひとしきり没頭した後は何事もなかったように気分を戻す、そういう何気ない愉しみ方だ。
そういうことを考えると、以前と随分考え方が変わったと思う。
昔は何かを得ようと力を傾け、自分自身や仕事にとって有益な内容を効率良く、無駄なく吸収しようとガツガツしていたものだ。
そうして眼前の猫は常と変わらず、人間界と無関係に陽光を浴び、のんびりしている。
彼らのそんな姿を眺めていると、何となく安心するから不思議だ。
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(初出:サイト「セクト・ポクリット」2021.4.3)