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愛媛ゆかりの文化、文学のエッセイ

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「愛媛新聞」その他に掲載された拙文をまとめたもの。
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2023年7月の記事一覧

趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-4 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について4

※13-3はこちら 虚子の回想によると、池内家ーー虚子は元来池内姓で、家名を継ぐために高浜家に入ったーーで東野の地は度々話題に上ったらしい。 江戸期から明治維新へ至る多難な時代を経た池内家――松山藩は朝敵とされた上に俸禄返還で困窮した士族は辛酸を舐めた――にとって、祖父の一家が東野に住んでお茶屋を管理した平穏なひとときは懐かしい思い出であった。13-1冒頭に掲げた虚子句、<ふるさとの此松伐るな竹伐るな>にはこういった背景があったのだ。 ところで、虚子から東野の話を折々聞

趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-3 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について3

※13-2はこちら↓ その後、東山御殿の建物は移築されるなどして徐々に消えていったが、吟松庵や竹の御茶屋、観音堂は後々まで遺された。 例えば、幕末に松山藩の世子の小姓を務めた内藤鳴雪(1847生)は世子とともに東山御殿で過ごすことがあったという。 このように藩が健在の頃は漢詩文等の清遊の興のひとときに東山の御茶屋が折々利用されたが、それも明治維新で藩が瓦解した後は途絶えてしまう。大政奉還の際、朝敵の汚名を着せられた藩主の松平定昭公は蟄居謹慎のため東野に退いたが、無論詩文

趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-2 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について2

※13-1はこちら↓ 松平定行公はタルトの他にも松山名物と縁があり、例えば五色素麺の遠祖とされている。 寛永期に松平家が桑名から松山に転封した際、長門屋市兵衛という商人も移住して松山で素麺の商いを始めた。やがて享保期となり、八代目市兵衛の時に娘が椿神社へ参拝した際、五色の糸が下駄に絡みついたという。 その時、娘は素麺に色を付けると美しいのでは……と思いつき、帰宅後、父に進言する。父の市兵衛は試行錯誤して五色の素麺を作って売り出したところ評判となり、藩主も知るところとなっ

趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-1 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について1

松山出身の高浜虚子が帰省した際、郊外の東野という地を訪れたことがあった。彼は幾つかの文章を書き、句を詠むなどして懐かしがったものだ。  ふるさとの此松伐るな竹伐るな  秋の蚊や竹の御茶屋の跡はこゝ  曼珠沙華故郷の道に踏み迷ひ これらは、作品のみ眺めても句意は取りがたいかもしれない。虚子はなぜ「此松伐るな竹伐るな」と呼びかけたのか、「竹の御茶屋」とは一体……東野が虚子にとっていかなる地か、本エッセイの第12回「愛媛のご当地タルト」とも関連させながら以下に綴ってみよう。

趣味や音楽、写真、ときどき俳句12 愛媛各地のご当地菓子

一般的にタルトといえば、パートシュクレと呼ばれるタルト生地やパイ生地等に果物やクリームを盛った菓子だが、愛媛のタルトはカステラ生地で餡を巻いた菓子を指す。餡は柚子の香りが漂い、円形のタルトをスライスしたものをいただくことが多い(画像1)。   その歴史は江戸初期以来とされ、松山藩主の松平定行公が長崎から伝えたとされる。 定行公は長崎探題でもあり、ポルトガル船が長崎に来航した際、警護のため多数の供とともに長崎へ急行した。長崎に緊張が走ったが、船は国王の代替わりを告げる使節だ