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趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-4 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について4

※13-3はこちら

虚子の回想によると、池内家ーー虚子は元来池内姓で、家名を継ぐために高浜家に入ったーーで東野の地は度々話題に上ったらしい。

 東野、畑寺、久米といふ名称は父母や兄達の話の中によく出た言葉であつて、殊に東野といふところは旧藩の時分に久松家のお茶屋のあつた所で暫の間祖父母が其処の竹のお茶屋と称へるところを預つて居つたので、其後祖父母が松山に帰任してからも、東野のお百姓が大根や芋を持つてよく祖父母を訪ねて来たことがあるといふ話を子供心になつかしく聞いて居たのであつた。(略)
 吟松庵で何々の会があつたといふことなどを子供の時分にも又其後も聞いたことがあるやうに思ふが、今も尚ほ存在してゐるものかと思ふ。
(虚子の回想)

江戸期から明治維新へ至る多難な時代を経た池内家――松山藩は朝敵とされた上に俸禄返還で困窮した士族は辛酸を舐めた――にとって、祖父の一家が東野に住んでお茶屋を管理した平穏なひとときは懐かしい思い出であった。13-1冒頭に掲げた虚子句、<ふるさとの此松伐るな竹伐るな>にはこういった背景があったのだ。

ところで、虚子から東野の話を折々聞く機会があった今井つる女は、ある時、曾祖父(つる女から見ると曾祖父)のよすがを訪ねて星野立子(つる女と従姉妹)と連れ立って東野の役宅(役人の住居)を探し訪ねている。

彼女らは蜘蛛の巣を払いながら草を押し分けて歩き、ようやく役宅を探し当てる。床の高い古びた家で、庭一面に万両が生い茂り、荒れてはいたが往時の姿を留めていたという。

つる女は、曾祖父の住まいを探した時の心情を次のように詠んでいる。松山藩が瓦解して約百年が経とうとしており、叔父の虚子も二年ほど前に亡くなっていた。

かつての藩や士族の気風は不況や戦争を経て奇跡的な経済復興がなされる中、急速に消えつつあった。

 東 野 の 役 宅 は ど こ 草 茂 り    つる女       


上記文章を2021年に「セクト・ポクリット」に発表後、拙著『愛媛 文学の面影』中予編の9章「東野の役宅はどこ草茂り」に大幅に増補して収録した。



(初出:「セクト・ポクリット」2021.7.14)


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