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趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-3 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について3

※13-2はこちら↓

その後、東山御殿の建物は移築されるなどして徐々に消えていったが、吟松庵や竹の御茶屋、観音堂は後々まで遺された。

例えば、幕末に松山藩の世子の小姓を務めた内藤鳴雪(1847生)は世子とともに東山御殿で過ごすことがあったという。

漢学講義とか輸講とか云ふ際は私も加はつて相応に口をきいた。
又詩会なども時々あつて、それは東野の別墅で催ふさるヽ事もあつて一寸して酒肴を頂く事もあつた。(鳴雪)

このように藩が健在の頃は漢詩文等の清遊の興のひとときに東山の御茶屋が折々利用されたが、それも明治維新で藩が瓦解した後は途絶えてしまう。大政奉還の際、朝敵の汚名を着せられた藩主の松平定昭公は蟄居謹慎のため東野に退いたが、無論詩文や茶会に耽ったわけではなかった。

そのためか、明治期以降も東野は松山藩士族にとってゆかりのある地であり続けた。例えば、士族の正岡子規や中村草田男が東野に訪れたのは、初代藩主が晩年を風流に過ごした清遊の地であるとともに、最後の藩主が謹慎の日々を過ごした地という印象も与っていたためだろう。

同じ松山藩士族の虚子もそれゆえ東野に愛着を抱いたわけだが、彼は他に個人的な感慨を抱く事情があった。幕末期に祖父が東山御殿の管理役を仰せつかり、数年の間東野の役宅に住んで維持に努めたという経緯があるためだ。

虚子の祖父は様々な逸話を遺した人物で、特に剣術と水練の達人だった。虚子の姪である今井つる女(虚子の兄である池内政夫の息女)は、次のような話を虚子から聞いたことがあるという。

「松山には神伝流という水練の流儀があり、曽祖父はその達人でもあった。江戸在勤中その門人を連れ、永代橋から櫓飛びの仕方を色々教えていた。これが評判になり公儀に召し抱えられそうになって、これは大変と松山へ逃げ帰ったという事である。東野のお茶屋(藩公の別荘)を預かっていたのも曾祖父で、何かにつけて東野の話をよく伯父から聞いたものであった」(虚子)。

虚子(「伯父」)にとって祖父は誇らしい人物であり、その祖父が藩命で御殿管理を仰せつかったのは栄えある任務と感じたため、つる女にも懐かしげに語ったのだろう。(4へ続く)



上記文章を2021年に「セクト・ポクリット」に発表後、拙著『愛媛 文学の面影』中予編の9章「東野の役宅はどこ草茂り」に大幅に増補して収録した。


(初出:「セクト・ポクリット」2021.7.12)


【俳句関係の書籍】
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