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趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-2 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について2

※13-1はこちら↓

松平定行公はタルトの他にも松山名物と縁があり、例えば五色素麺の遠祖とされている。

寛永期に松平家が桑名から松山に転封した際、長門屋市兵衛という商人も移住して松山で素麺の商いを始めた。やがて享保期となり、八代目市兵衛の時に娘が椿神社へ参拝した際、五色の糸が下駄に絡みついたという。

その時、娘は素麺に色を付けると美しいのでは……と思いつき、帰宅後、父に進言する。父の市兵衛は試行錯誤して五色の素麺を作って売り出したところ評判となり、藩主も知るところとなった。松山藩は五色素麺を八代将軍吉宗公や朝廷に献上しており、藩内外に名物として広く知れ渡ったという。

長門屋市兵衛を祖とする五色素麺店は、現在も愛媛で営業中である(五色そうめん株式会社森川)。定行公が五色素麺誕生の遠祖とされるのは、桑名からの国替えに端を発する逸話があるためだ。

その色鮮やかな素麺は歴史の古さゆえ多くの文人墨客が賞味しており、近松門左衛門から正岡子規、高浜虚子に至るまで言及してきた。

例えば、子規が東京根岸で病臥の生活を送っていた頃、松山に帰省中の虚子に次のように書き送ったことがあった。「貴兄御上京之節御荷物の都合にて索麺(三番町ノ)一箱か二箱願はれまじくや」云々。もはや帰郷が叶わない子規にとって、五色素麺は得がたい郷土食だったのだろう。

松山の正月おせち料理の定番とされる緋の蕪漬も定行公が桑名から持ちこんだという(前藩主の蒲生忠知が近江から取り寄せたともされる)。

定行公は松山城の天守閣を五層から三層に改築し――幕府に遠慮したとも、地盤を考慮してともいわれる――、道後温泉を大幅に整備するのみならず、桑名から取り寄せた白魚を松前町という港町に放流して名産品とし、また久万という地方の山々が茶の栽培に適しているとして宇治から茶の木を取り寄せ、一大産地に育てたりと現代に続く松山藩の基礎を固めた殿様であった。

そういった定行公ゆかりの松山名物は明治期以降も定着しており、例えば高浜虚子が当時の一般的な松山名物を紹介した際、定行公ゆかりの品を伊予節――江戸後期に江戸や上方でお座敷歌として広まった――とともに並べている。

「五色素麺は紅黄青等の五色から出来てゐて他国に類の無い美しい素麺である。其他伊予奉書、勝山煮、緋蕪等の名産がある。俗謡伊予節に曰く「いよの松山名物名所、三津の朝市道後の湯、音に名高き五色素麺、(略)緋のかぶらいよかすり」(後略)」 

これら素麺や緋の蕪漬が定行公由来の名産であるのは、昔から広く知られるところだったのである。

かように藩政に勤しんだ定行公は古稀を過ぎた頃に家督を嫡男(定頼公)に譲って隠居し、郊外の東野に移り住んで悠々自適の日々を送った。

剃髪して勝山と名乗り、唐の金山寺の面影を宿した簡素な御殿――漢詩になぞらえて吟松庵と命名された――に住まい、近辺を風致ある地に造り替え、東山御殿と名付けて情趣を堪能した。

周囲一里ほどを竹垣で囲み、路は東海道五十三次の趣向を取り入れて路沿いに松を植えさせ、所々に東屋を設け、また琵琶湖を模した池を造って橋をかけたという。

池の傍らには清水寺を彷彿とさせる観音堂を建立し、近くの小高い処に総て竹で造った「竹の御茶屋」をしつらえて茶の湯を愉しんだと。全体の設計は裏千家の千宗庵に依頼し、三年がかりで完成させた。定行公は東野の御殿に十年ほど住み、八十二歳で大往生を遂げたのである。(3へ続く)



 

上記文章を2021年に「セクト・ポクリット」に発表後、第12回と第13回1~4を一章にまとめて大幅に増補後、下記の拙著『愛媛 文学の面影』中予編の9章「東野の役宅はどこ草茂り」に収録した。



 

(初出:「セクト・ポクリット」2021.7.8)

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