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愛媛ゆかりの文化、文学のエッセイ

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「愛媛新聞」その他に掲載された拙文をまとめたもの。
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記事一覧

趣味や音楽、写真、ときどき俳句28 愛媛県の岩松と小野商店

愛媛ゆかりの文学や文化について綴った『愛媛 文学の面影』(創風社出版、2022)は、当初は一冊の予定だった。しかし、予想以上に膨らんだことや諸事情が重なり、愛媛三地方(東予・中予・南予)に分けた三部作として本を出すことになった。 三部作で最も分量が多いのは南予編であり、原稿段階では現在より50ページ強も多かった。あまりに増えたため、50ページほど削って現在の量に落ち着いたのだが、なぜ執筆途中で「書きすぎでは?」と気付かなかったのか、今から思うと不思議である。狸(四国なので狐

趣味や音楽、写真、ときどき俳句27 約48万字の本作りと体力

愛媛の出版社、創風社出版から『愛媛 文学の面影』という随筆集を三冊刊行させてもらうことになった。愛媛は東予・中予・南予の三地方に分かれており、各地方によって文化や歴史の特色がある。当初は一冊の予定だったが、結果的に三地方ゆかりの文学や文化についてそれぞれまとめることになり、一冊あたり250~270ページあたりでまとめることにした。 文字数としては三冊合計で約48万字となり(当初は50万字ほどになったが、多すぎるのでカットした)、かなりのボリュームになった。既発表の内容も多い

愛媛新聞「四季録」07 内子の活動写真館

  内子駅を降りると驚いた。駅前に蒸気機関車が鎮座していたのだ。文楽や木蝋などで有名な内子町にあって、漆黒の機関車に出会うとは思わなかった。 案内板によると昭和14年製、旧内子線を昭和45年まで走ったという。鉄道ファンには感無量のひとときで、青空の下で黒光りする機関車を眺めた後、保存地区の方へ向かった。 大きな空襲を免れた内子町には多くの建築が遺っている。本芳我家や上芳我邸、大村家などの他に近代の内子座や旧警察署など目白押しで、各資料館やお店も加えるとすぐ一日が過ぎてしま

愛媛新聞「四季録」08 道後鉄道の路線跡と夏目漱石『坊っちゃん』

夏目漱石の小説『坊っちゃん』(明治39)には「汽車」がよく登場する。有名なのは、船で三津浜(と思われる港)に着いた坊ちゃんが汽車に乗る場面だろう。 他にも宿直の坊ちゃんが学校を抜けだして道後温泉に行き、帰りは汽車に乗ったり、また他の箇所でも手拭いをぶらさげて道後まで汽車で行ったりしている。 現代の松山で汽笛を響かせて走る「坊っちゃん列車」はこの「マツチ箱のやうな汽車」を模したもので、レトロな雰囲気を醸しだしている(現物は梅津寺に保存)。 ただ、今も「坊っちゃん列車」が市

趣味や音楽、写真、ときどき俳句26-4 愛媛県南予地方と宇和島の牛鬼4

※26-3はこちら 現在、宇和島で催される牛鬼まつりは和霊神社の神輿の先導役を担っており、祭りの最終日にあたる7月24日の昼に牛鬼が市内を練り歩き、商店街アーケードにも入って邪気を祓う。夕方頃になると神社の神輿が出御し、牛鬼が清めた市内を練りながら港へ向かい、御座船に移って海上を渡御する。 日はすでに没し、各所を練り歩いた他の神輿や牛鬼は大量の提灯や篝火で照らされた須賀川に集い始める。川岸や橋は見物客で埋めつくされており、やがて海上渡御を終えた神社の神輿が河口付近に現れ、

趣味や音楽、写真、ときどき俳句26-3 愛媛県南予地方と宇和島の牛鬼3

※26-2はこちら 南予地方の牛鬼を描いた文学で著名なのは、獅子文六『てんやわんわ』(昭和24)だろうか。彼は敗戦後、食糧難やGHQの検挙を恐れて妻の郷里の岩松(現・宇和島市津島町)に疎開しており、そこで見聞した秋祭りの様子を小説に描いている。    文六は小説のクライマックスとして秋祭りに沸き上がる相生町(岩松)の様子を描き、牛鬼も登場させている。映画版『てんやわんや』(昭和二十五年)では作品舞台の岩松でロケが敢行され、敗戦後まもない町並みを牛鬼が練り歩く様子が撮影され

趣味や音楽、写真、ときどき俳句26-2 愛媛県南予地方と宇和島の牛鬼2

(上の画像は吉田の「八幡宮御祭礼画図」(愛媛県歴史文化博物館蔵)) ※1は下記参照 柱に高々と掲げられた異形の面を見た時、私は宇和島に来たことを実感するとともに、芸術家の大竹伸朗氏(宇和島在住)のエッセイを肌で実感した思いがした。   「和霊大祭と牛鬼まつり」云々とは、宇和島で毎年七月二十二日から同二十四日にかけて三日間催される大規模な祭りである。ダンスや踊り、また牛鬼の練り物と和霊神社の大祭が同時開催となるため、市内あげての熱気が渦巻く時期であり、大竹氏も記すように祭

趣味や音楽、写真、ときどき俳句26-1 愛媛県南予地方と宇和島の牛鬼1

「きさいやロード」と掲げられた宇和島(愛媛県南予地方の街)のアーケード商店街を初めて訪れた時、道幅の広さに驚いたことを覚えている。優に十メートルを超えており、松山市の大街道商店街並みに広く感じられたものだ。アーケードが南北に長く伸びているのも特徴的で、北側から恵美須町、新橋、袋町の三商店街に架かっており、それで長大に感じられるのだ。 (「ガジェット&旅」チャンネルのTaka-sim氏が宇和島を散策した動画。2:50頃に商店街入口が見える) この三商店街は宇和島商店街として

愛媛新聞「四季録」09 松山グランド劇場

その昔、松山大街道付近には芝居小屋や映画館が数多くあった。明治期には正岡子規が夏目漱石とともに大街道へ芝居を観にいったり、大正期には松山中学生の伊丹万作が映画館に足繁く通ったものだ。 昭和20年の空襲で多くの映画館が灰燼に帰したが、戦後も人々は映画を求めた。戦時生活から解放され、娯楽も少なかった当時、銀幕の世界は並ぶものなき娯楽の王だったのだ。 やがて大街道には映画館が続々と出現する。有楽座やタイガー劇場、銀映、国際劇場…他の地域にも映画館は次々に現れ、愛媛の人々は瞬く間

趣味や音楽、写真、ときどき俳句24 愛媛県の興居島

(初出:「セクト・ポクリット」2022.3.12) ∴     三月になり、陽ざしが春めいてきた。 上の写真は愛媛県の興居島(ごごしま)で撮ったもので、春になると思い出す写真だ。興居島は松山市から船で10分ほどで着き、約1,000人が住んでいる。 個人的に島が好きで、船で渡って島でのんびり過ごしていると何ともいえない幸福感を感じてしまう。それも春に訪れるのが好きで、かつては近くの島に行ったりしていた。 写真の興居島は蜜柑がよく実る島で知られ、降り注ぐ陽光と海からの照

趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-4 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について4

※13-3はこちら 虚子の回想によると、池内家ーー虚子は元来池内姓で、家名を継ぐために高浜家に入ったーーで東野の地は度々話題に上ったらしい。 江戸期から明治維新へ至る多難な時代を経た池内家――松山藩は朝敵とされた上に俸禄返還で困窮した士族は辛酸を舐めた――にとって、祖父の一家が東野に住んでお茶屋を管理した平穏なひとときは懐かしい思い出であった。13-1冒頭に掲げた虚子句、<ふるさとの此松伐るな竹伐るな>にはこういった背景があったのだ。 ところで、虚子から東野の話を折々聞

趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-3 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について3

※13-2はこちら↓ その後、東山御殿の建物は移築されるなどして徐々に消えていったが、吟松庵や竹の御茶屋、観音堂は後々まで遺された。 例えば、幕末に松山藩の世子の小姓を務めた内藤鳴雪(1847生)は世子とともに東山御殿で過ごすことがあったという。 このように藩が健在の頃は漢詩文等の清遊の興のひとときに東山の御茶屋が折々利用されたが、それも明治維新で藩が瓦解した後は途絶えてしまう。大政奉還の際、朝敵の汚名を着せられた藩主の松平定昭公は蟄居謹慎のため東野に退いたが、無論詩文

趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-2 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について2

※13-1はこちら↓ 松平定行公はタルトの他にも松山名物と縁があり、例えば五色素麺の遠祖とされている。 寛永期に松平家が桑名から松山に転封した際、長門屋市兵衛という商人も移住して松山で素麺の商いを始めた。やがて享保期となり、八代目市兵衛の時に娘が椿神社へ参拝した際、五色の糸が下駄に絡みついたという。 その時、娘は素麺に色を付けると美しいのでは……と思いつき、帰宅後、父に進言する。父の市兵衛は試行錯誤して五色の素麺を作って売り出したところ評判となり、藩主も知るところとなっ

趣味や音楽、写真、ときどき俳句13-1 松山藩松平定行公と東野、高浜虚子や今井つる女が訪れた茶屋について1

松山出身の高浜虚子が帰省した際、郊外の東野という地を訪れたことがあった。彼は幾つかの文章を書き、句を詠むなどして懐かしがったものだ。  ふるさとの此松伐るな竹伐るな  秋の蚊や竹の御茶屋の跡はこゝ  曼珠沙華故郷の道に踏み迷ひ これらは、作品のみ眺めても句意は取りがたいかもしれない。虚子はなぜ「此松伐るな竹伐るな」と呼びかけたのか、「竹の御茶屋」とは一体……東野が虚子にとっていかなる地か、本エッセイの第12回「愛媛のご当地タルト」とも関連させながら以下に綴ってみよう。