趣味や音楽、写真、ときどき俳句12 愛媛各地のご当地菓子
一般的にタルトといえば、パートシュクレと呼ばれるタルト生地やパイ生地等に果物やクリームを盛った菓子だが、愛媛のタルトはカステラ生地で餡を巻いた菓子を指す。餡は柚子の香りが漂い、円形のタルトをスライスしたものをいただくことが多い(画像1)。
その歴史は江戸初期以来とされ、松山藩主の松平定行公が長崎から伝えたとされる。
定行公は長崎探題でもあり、ポルトガル船が長崎に来航した際、警護のため多数の供とともに長崎へ急行した。長崎に緊張が走ったが、船は国王の代替わりを告げる使節だったことが分かり、何事もなく終わった。
そのポルトガル船とのやりとりの際に定行公は南蛮菓子に接し(ジャム入りのカステラで、ロールケーキに近かったらしい)、いたくお気に召したために製法を松山に持ち帰ったのが発祥という。
ジャム入りを餡に変えたのは定行公の考案とされ、久松家(定行公の松平家の旧姓)に代々伝わった。そして明治維新で藩が瓦解した後、製法が庶民の間に広まり、現在のように多くの菓子店が供するようになったのである。
今も松山では多数のタルトが販売されている。例えば、一六タルト(明治16年創業)、ハタダのタルト(昭和8年創業)、六時屋タルト(昭和8年創業)等、いずれも定行公に由来するご当地タルトだ。
一六タルトはかつて伊丹十三がCMに出演し、ハタダのタルトは新居浜の角野町(山の裾野)で創業したため別子銅山にゆかりの深い菓子店であること、また六時屋の創業者は労研饅頭の元主任……と、このあたりはご当地すぎるので、ネットでは控えておこう。
タルト各店の詳細は拙著『愛媛 文学の面影』中予編で六時屋について、また東予編(創風社出版)でハタダのタルトについてまとめているので、ご興味のある方はご覧いただきたい。
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ところで、松山藩ゆかりのご当地タルトは愛媛各地に見られ、特に南予地方(「伊予南部」という意味)の八幡浜や佐田岬近辺にも数多く見られる。松山と異なるのは黒タルト(黒餡)と赤タルト(赤餡)の二種類がある点で、一緒に売られていることも多い(画像2)。
こういった赤タルトは松山市内でほぼ見ないが、佐田岬方面ではあちこちの店に置かれている。
以前、坪内稔典氏の故郷である佐田岬の九町を訪れた際、坪内氏が幼少時に通っていた富士美堂菓子店に行く機会があった。坪内氏のご実家にお住まいの坪内光典氏(稔典氏は長兄で、光典氏は末弟)が菓子店に案内下さり、店を切り盛りする井上さんにお話をうかがったのである。
お話によると、初代の方は大正時代に菓子職人になろうと長崎へ菓子修行に赴き、それも松山の一六タルトの職人とともに修行をしたという。
長崎で修行を積んだ後、佐田岬の郷里に戻って菓子店を開き、ある時思いついたのがタルト餡を赤色にするアイディアだった。
赤は鮮やかで、縁起物としても良い。試みに作ってみたところ好評で、それから赤餡タルトを売り出すようになり、やがて近辺にも赤タルトが広まったという。
富士美堂菓子店が赤餡タルトの初考案者か否かは詳らかにしないが、大正時代でも菓子修行のため長崎へ赴いたというのが興味深いところだ。佐田岬は愛媛の中でも九州文化圏に近く、海路を使えば松山より九州の方が近かった。その点、菓子修行のために神戸や横浜ではなく、長崎へ向かったのは自然といえよう。
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ただ、同じ南予でも宇和島に向かうとタルトは減少し、代わりに独特の菓子が増える(画像3-5)。
唐饅頭(略して「とうまん」)や大番、善助餅といった菓子で、駅隣のキヨスクや商店街の各店で売られており、最も由来が古いのは唐饅頭である。
江戸期に長崎から伝来したとされ、中国の煎餅(ジエンピン)に近い菓子が伝わったとか、オランダ人から教わった云々と諸説あるが、いずれにせよ長崎方面から渡来した珍しい菓子だったのだろう。
唐饅頭にせよ、先のタルトにせよ、長崎伝来の南蛮菓子が九州寄りの地域である宇和島や松山に定着したことは、海路を通じて九州文化との関わりが深く、また近かったことを示している。
唐饅頭の皮は小麦粉と水飴を練ったもので、やや固く、中には黒砂糖と柚子等で甘く仕立た飴が入っており、独特の歯ごたえと風味がある。夏目漱石は松根東洋城(宇和島藩家老の血筋)からこの唐饅頭を贈られたことがあるらしく、東洋城への礼状に「唐饅頭に至っては天下の珍品、ニガイこと練薬を舐めるが如し。皮の方が余程よろしい」(明治40年)云々と冗談交じりにしたためている。
なお、大番と善助餅は獅子文六の戦後小説『大番』及び『てんやわんや』(いずれも宇和島が登場し、善助は登場人物の名)に由来する菓子である。文六は敗戦後、宇和島から南の岩松に疎開したことがあり、彼の作品に宇和島が登場するのはそのためだ。
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南予には他にもご当地菓子があり、大洲市に行くと「志ぐれ」が数多く置かれている(下記は富永松栄堂のリンク)。
小豆と餅粉、米粉を混ぜ合わせて蒸籠で蒸した菓子で、江戸から伝わったという。大洲近隣の店では「志ぐれ」との遭遇率が高いが、宇和島ではさほど見かけず、松山では稀に近い。
愛媛にかくもご当地菓子が多いのは、江戸期に複数の藩に分かれた地域だったことも影響していよう。今回紹介した松山、宇和島、大洲はそれぞれ別の藩で、独自の文化圏を有しており、愛媛にはこの他にも伊予八藩と称されるほど多くの藩に分かれていた。
松山や南予のみならず、東予(伊予の東部)も複数の藩や天領に分かれたためか、各地域に様々な菓子がある。
例えば、今治には鶏卵饅頭なるものがあり、卵で練った生地に漉餡が詰まった菓子で、小粒に作られている(下記は一笑堂のリンク)
藤堂高虎が今治城を築いた後に大手門付近で蒸し饅頭を売る店があり、「大手饅頭」と評判を呼んだという。その初代が寛政年間に考案したのが鶏卵饅頭で、形が鶏の卵に似ているところから名付けられた。
今治には他にもご当地菓子があり、例えば地元の人々に愛されるラムリンが挙げられる(画像6)。
昭和37年創業の「くろふね菓舗」の洋菓子で、カステラにラム酒を染みこませたものだ。大きな寺院が向かいにあるため和菓子も売られており、昔は和洋どちらの菓子もよく売れたらしいが、2021年6月に閉店とのことで寂しい限りだ(後継者がいないとのこと)。
現在、愛媛県は行政的に一県とされるが、各地方で文化や食事情が相当異なっており、それはご当地菓子にも反映している気がする。
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上記文章を2021年に「セクト・ポクリット」に発表後、拙著『愛媛 文学の面影』中予編(創風社出版、2022)の第9章「東野の役宅はどこ草茂り」、またコラム「愛媛各地のご当地菓子」に分割して掲載し、それぞれ大幅に増補した。
『愛媛 文学の面影』中予編のamazonページはこちら
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(初出:「セクト・ポクリット」2021.6.21)
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