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趣味や音楽、写真、ときどき俳句

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音楽、写真、大学の授業、俳句その他諸々のエッセイです。サイト「セクト・ポクリット」掲載の拙文をまとめています。
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#猫写真

趣味や音楽、写真、ときどき俳句23 懐かしいノラ猫たち

  昔、散歩していた時にふと視線を感じたのでその方に目をやると、上の写真のように猫がこちらを見つめていたことがあった。 猫と目が合った瞬間、人間の目線と同じ高さに猫の顔が存在している事態が理解できず、猫の顔だけが浮遊しているように感じられ、思わずヘンな声を叫びそうになった。 あまりのことに驚き、私はギョッとした目(たぶん)で表情が凍りついたまま凝視したためか、猫もかなり驚いたらしく、互いにギョッとしたまましばし見つめあっていた。 やがて理性を取り戻した私は、「なぜその高

趣味や音楽、写真、ときどき俳句21 中国大連の猫

大連の猫は眼が青かった。 中国の遼寧師範大学に行った時、早朝に大学周辺を散策していると小さな屋台のそばで白猫がのんびりしており、見ると両眼が綺麗なブルーだった。 人慣れしているのか、近づいても逃げずにこちらを見つめている。私も猫のそばで佇みながら様子をそれとなくうかがっていると、白猫は大きな欠伸をした後に毛繕いを始めた。 中国の人々は朝が早い。私が散歩していたのは6時半頃だったが、多くの人が足早に歩きながら職場に向かっていた。冬の朝は寒く、人々は白い息を吐きながら黙々と

趣味や音楽、写真、ときどき俳句19 子猫たちのいる場所

同じ地域を散歩していると色々な変化に気づくことがある。道路脇の木がいつの間にか伐採されたり、あるいは老夫婦が過ごす一軒家が空き家になった後、やがて家を潰す工事が始まり、跡地が駐車場になっていたりする。 散歩の途中で立ち寄る公園では春や秋にどこからともなく子猫が現れ、元気な姿を見せることがあった。 下の写真は五月の初夏だったと思う。昼下がりに二匹の子猫が眠気に勝てず、落ちかかっているところだ。この後、白猫は黒猫を落としてしまい、落ちた子猫はビックリしていた。 その子猫たち

趣味や音楽、写真、ときどき俳句02 猫を撮り始めたことについて

いつしか猫を撮るようになった。 デジタルやフィルムのカメラに凝っていた頃、公園のノラ猫を何気なく撮ると、写真の猫の表情が思ったより愛らしいことに驚いた。猫は前から好きだったが、その時以来、意識的に猫を撮るようになった。 猫を撮り始めたのは、街のスナップや風景写等を諦めたという経緯も大きい。自分の写真があまりにヘタで衝撃が走り、早々に気が削がれたのだ。 そもそも、往事のアンリ・カルティエ=ブレッソンや木村伊兵衛のように街の人々の一瞬を切り取るのは至難の業で、それにプライバ

趣味や音楽、写真、ときどき俳句04 原付の上のサバトラ猫

いつものように散歩していると、あるマンションの駐車場に猫が居るのを見かけた。そのマンションは一階が車や原付、自転車を駐めるスペースになっており、猫は原付の座席シートの上で眠そうにしていた。 それとなく近づいてみると、猫は逃げる風もない。サバトラ猫で、人慣れしているらしく、座席上で香箱座りのまま両目を閉じかけ、うつらうつらしていた。 その時は眺めるだけで立ち去ったが、それからは散歩の時にマンションの前を通るようにし、1階の駐車スペースを覗くとよく猫を見かけた。何匹かいるらし

趣味や音楽、写真、ときどき俳句05 勉強の仕方

勉強の仕方そのものが大事なんだよ、と教えてくれた方がいた。 学校の勉強ではなく、社会人になってからの話だ。その方とは時折会い、酒杯を傾けながら話をうかがうことが多い。私とは比べものにならないほど人生経験を積み、人間の表も裏も見てきた方だ。 その方は語る。 「勉強というのは比喩的な言葉で、要するにこれからの各時期に何をすべきか、それを実現するためには何をすべきか、そのために何を学び、何を自分のモノにすればよいかを考え、努力を傾けるといった意味だ。 努力はすればいい、とい

趣味や音楽、写真、ときどき俳句06 落語と猫

散歩しながら落語を聴くのが好きだった。mp3プレイヤーに音源を入れ、イヤホンで古今亭志ん生や桂米朝、三遊亭円生といった往年の名人の噺を聴きながら散策する。 志ん生の長屋ものや(「三軒長屋」「黄金餅」等)、米朝が喋るバカバカしい話(「天狗さし」「阿弥陀池」等)といった噺を流し、町の四季折々の風景を見ながら歩くのはステキなひとときだ。 フィルムカメラをやっていた頃は首からカメラをぶらさげたまま落語を聴き、猫を見かけた時にはシャッターを切った。猫が逃げるそぶりを見せない時は、耳

趣味や音楽、写真、ときどき俳句07 「何となく」の読書、シャッター

ものを書き続けて倦んだ時、小説を何気なく手に取って読むのがいつしか愉しくなった。例えば、チェーホフの小説の次のような一節。 こういうくだりを物語からなかば切り離して味わう。厳冬の窓越しから射しこむ陽光の清々しさを思いやり、サモワールが沸騰する響きを想像する。そんな風い味読していると、頭の中がスッとするのだ。 また、こういう気散じの読書をする際に古典はうってつけで、例えば源氏物語の「紅葉賀」巻は幾度読んでも感に堪えない。 天上の楽のような調べが淡く、薄い霧のように身を包む