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趣味や音楽、写真、ときどき俳句06 落語と猫

散歩しながら落語を聴くのが好きだった。mp3プレイヤーに音源を入れ、イヤホンで古今亭志ん生や桂米朝、三遊亭円生といった往年の名人の噺を聴きながら散策する。

志ん生の長屋ものや(「三軒長屋」「黄金餅」等)、米朝が喋るバカバカしい話(「天狗さし」「阿弥陀池」等)といった噺を流し、町の四季折々の風景を見ながら歩くのはステキなひとときだ。

フィルムカメラをやっていた頃は首からカメラをぶらさげたまま落語を聴き、猫を見かけた時にはシャッターを切った。猫が逃げるそぶりを見せない時は、耳からmp3プレイヤーをそっと外し、静かに近づいて写真を撮ったりしたものだ。

落語を聴きながらの散歩で困ったのは、歩きながら笑ってしまう点である。
噺の内容は何度も聴いて覚えているし、どこで笑いが起きるかといったことも把握しているが、それでも笑えてしまう噺がいくつかあった。

例えば、志ん生の「黄金餅」。

長屋住まいの西念さんが、ある時病気になった。死期の予感を抱いた彼は貯めた金を誰にも渡すまいと餅の中に金をつめ、全部飲み込もうとする。ところが、西念さんは餅を詰まらせ、あえなく息絶えてしまう。

隣部屋の住人、金兵衛さんはその一部始終を覗き見しており、彼はぐったりした西念さんの腹中にあるはずの金を取り出したいと考える。しかし、方法がなく、思案に暮れた金兵衛さんは呟く。「棒で突いてみようかしら。心太だと出るんだけどなあ」。

深刻な状況のはずなのに、緊張感も何もない金兵衛さんがとぼけた調子で思案する姿がどうにもおかしく、観客はドッと笑う。私もつられて笑ってしまう。

道の向こうから来る人にとって、私は不気味な人間に見えたに違いない。カメラをぶら下げ、前を向いて歩きながらフッと笑っているのだ(私自身、そういう人とはあまり会いたくない)。

ともあれ、そういう風に落語を聴きながら午後の静かな町を散策し、猫を見かければフィルムカメラのシャッターを切る。なんとも贅沢な時間だった。



 

下の写真の猫はそういう時期に撮ったもので、確か三月だったと思う。春の午後の陽光で暖まったのか、猫はうっとりし、目をなかばつむりながらうずくまっていた。家の壁は夕暮れの陽ざしが当たり、窓が煌めいていたのを覚えている。


Bessa R2Aで撮影。Photo by Makoto Aoki



(初出:サイト「セクト・ポクリット」2021.3.15)


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