Pさんの目がテン! Vol.48 P.ロッシ『普遍の鍵』

その知的形成期にキケロ―の諸作品を「ひそかに貪り読んだ」ヒュームにしてみれば、記憶の技法ないし記憶術が歴史上存在していたことは周知の事実であった。彼のことばの端々からもわかるように、もとより記憶術は話術を重んじる一文明の開花とかかわり、修辞学を文化の生きた形成因とする世界とむすびついている。
(P.ロッシ『普遍の鍵』国書刊行会、22ページ)

 中世、ルネサンスというのは、いったいどんなルツボだったのか、と思う。
 先に挙げた、ベケットの「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」という、論文のような宣伝文について触れたが、そのつながりで手に取った、ジョルダーノ・ブルーノという哲学者について触れている、この『普遍の鍵』という本を、今読んでいて、内容などほとんど知らないうちから、単にキーワード的にブルーノの名前が載っていたから、解説を読むようなつもりで読みはじめたら、これがどうにも一筋縄ではいかない本らしい。
 まだ冒頭しか読めていないが、記憶術をめぐる本であるらしい。また、これも、何となくしか察せられないが、一時期の普遍言語とか、記号論とかいったものにもかかわるらしい。自分的にしびれるポイントは、中世、そしてルネサンス期という、啓蒙主義の直前の時期において、徐々に「オカルト」の側に掃き捨てられてしまったものの中に、十分に見るべきものがある、マトモな学問が、占星術とかと一緒に追いやられてしまった、その顛末を書こう、といった風な序文だった。
 たしかに、たしかに、今でいうオカルトという箱の中身はずいぶん乱雑に色々なものが入っている。この箱に、いろんなものが放り込まれる前には、当然ながら、その後とは別の世界観があったはずである(と、今、ブルーノのことを追いながら書いているのに、ヴィーコの、反デカルト的態度のことも思い起こされる)。それが正しいかどうかは知らない(しかも、今に残ったから、それが正しかったのかといえば、それもわからないはずだ)、しかしある世界ではあったはずだ。
 一気に興味深くなって続きを読んでいた所で、引用した、ヒュームの話が出て来た。まだまとまりきらないので、系譜的に書くだけにとどめると、

ヒューム-ロレンス・スターン-夏目漱石、いとうせいこう

 という、自分の中での流れがある。ヒュームも哲学者で、今まで因果律とか、論理的結構のようなものがあったけれども、それらの背後に、連想によるつながり、想念と想念のつながりにのみ基いた原理みたいなものがあるという、それだけ取るとものすごい価値転換をもたらすような考えの持ち主で、そして、この哲学は小説と相性がよい、らしい。
 そのヒュームが、この箇所では、まだ文章とか書いていなかった時期に、今話題にしているキケロを読みふけっていて、その理由というのが、雄弁術を可能にする記憶術にあるといっている。
 以上は、どれも雑な読みである。厳密に、そういう意味のことを言っているのかはわからない。しかし、何かつながりが見えてきそうだ、という感触がある。そして、そういうことが起こっているのが、中世をこえて、近代に入るか入らないかの頃の哲学に集中していることから、冒頭の感慨に戻る、というわけである。
 じっさいのところは、どういうわけなんだろう。読んでいくしかない。

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