Pさんの目がテン! Vol.72 妙に親しげな古典 キケロ―『友情について』(Pさん)

 十二月に入った瞬間に、またガクっと寒くなった。三月か四月にも、そんな話題が出ていた気がする。暑さ寒さが厳しくなる度に、部屋の空気がどうとか、空間がどうとか、他人の感じ方がどうとか、いろんなことが気になるものである。
 友情を作り、育む際にも、ぬるま湯であってはいけない。ときに厳しく……。

 キケロ―の『友情について』を読んだ。紀元前四〇年前後に書かれたらしい。おそらく、じつに親しみやすい古典として、親しまれてきたのだろう。欠損箇所も、ほとんどない。古典を読んでいて、内容に乗せられて、急に欠損箇所に当たると、いろいろと思う。今読んでいるのは、電子書籍のストアで、何もせずおすすめされるような、受動的態度で読めるものではないのだ。今、これと対等に並ぶようにして読める本でもない、何十世代も散逸せずに現代に渡ってきた本である。過去にいろいろな読みにさらされてきた、等々。
 全体の半分が焼失しているとか、その欠けた部分を、あるいは名前だけ存在するからという理由で、後年の弟子が、あるいはまったく無関係の人間が一部書き直した、全部書いてしまった、そういった痕跡が明らかにあるだのもしかしたらそうだだの、そんな本は、古典の時代の本ではざらにある。ひるがえって、岩波文庫のものでも、いや、岩波文庫であればこそ、という場合もある、現代人に対して優しく語りかけるように翻訳された、私達が目にする本文は、当然ながら、私たちに対して優しく語りかけてくる。これは師匠(これは、師匠が自分のことを師匠と呼んでいる、とても優しい世界を思い浮かべてもらいたい)が、さらにその岳父(嫁の父親)から聞いた話なんだけど、岳父はこんな風に言っていたよ。それはね……。
 こんな風に、ほとんど並べようのない肩が突然向こうから飛び出してすり寄ってくるかのごとく、優しく語りかける。眠くなるような、岳父の、親友に対する態度形成の御託が並べられる。
 しかし突然、何行、何ページ欠けたのかすら不明な、謎の欠損が口を開く。
 そこで、ああこれは、私が肩を並べるようにして読んでいられるような本ではなかったのだな、と急に複雑な思いに駆られるのである。映画館で映画を見ていたら、急に地震が来て場内が明るくなるようなものだ。
 しかし、何事もなかったかのように、オジイチャン格の人物の訓辞はまた続く。いいか。徳を持たんといかんぞ。徳がなければ、友情が何だろうか……
 結論から言うと、ひどく退屈な読書だった。こんなこともあるか。まあ、古典に久しぶりに飛び込む一手としては、よかったかもしれない。しかし、翌週にはジャンプにも出てきそうな、この親しげな調子は何だろうか。これは、一体どう読まれてきて、現代に残ったんだろうか。ラテン語の文例としてだろうか。アイハブアペン。これが出版された当時は、同じ調子を含んでいたのだろうか。それとも……

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