吉田茂邸(Pさん)

 ドライバーは、海岸にそって複雑に湾曲する道路を、少し飛ばし気味に走らせていた。たまにタバコも燻らせていた。要するには気分が良かったのだろう。空いた手でカーステレオを操作し、サザンの好きな曲を数曲、エンドレスでループさせていた。たまに宇多田ヒカルの「トラベリング」も流したりした。
 助手席にいる人が、脂汗を流していた。足元に、そのステレオのスピーカーがあって、足がブンブンいっているのが非常に不快だった。それだから脂汗を掻いていたのではない。先行きの不透明さに頭が混乱していたようだ。爪楊枝で何度もリセットボタンを押していた。爪楊枝は、そのボタンに差し込むには太すぎて、全くリセットできていなかった。電池を入れ替えたら必ず押せと説明書に書いてあったけれども、今まで電池を入れ替えた後で、初期状態にならず、異常動作を起こしたということは経験がなかった。にも拘らず、リセットボタンを押すことにここまで拘っているのには、彼の神経質さというのが起因しているようだった。おそらく、焼き魚のどんな小骨も全て取ってから食べるのでなければ納得がいかないというタイプなのだろう。
 せっかく足元のゴミから探し出した爪楊枝でさえ、リセットボタンを押す用に足りないのを見て、ついに錯乱しきってしまって、奥歯で機械をメチャメチャに噛み始めた。
 後ろの窓からノックする音がし、ドライバーがそれに答えた。
「まだ話し掛けるな」
「あのう。随分待っているんですが、病院にはいつ着くのでしょうか」
「いつ着くのかって。あまり気にすると、より長く感じられるだろうよ。私達の運転技術を信じて、大船に乗ったような気持ちでいればいいのさ。鎮静剤が足りないのかな?」ドライバーは、助手席の男を小突いて、一本注射を打たせようと思ったけれども、助手が機械を齧るのに夢中になっていたので諦めた。
「機械おいしい!」
「私、さっきから、といってももうずいぶん前になりますが、海老名インターチェンジを過ぎたあたりからでしょうか、それまで執拗に付きまとっていた胸の苦しさから急に解放されたような感じになり、今など、こうして様々な医療機械のぶら下がっている天井近くから、あなたに向けて話し掛けているような気がするのです。これは、俗に言う……」
「テレビの見過ぎだろう。それよりほら、窓の外を見てごらん。大磯ロングビーチだよ。吉田茂邸は、もう後方に置き去りにした。見えたかい? 吉田茂邸は」
「はい」
「機械、苦い! やっぱり苦い!」
「吉田茂邸は、あんな風になっていたんですね。想像もしていなかった。今後、誰かに吉田茂邸について聞かれた時も、即答することが出来ます。しかし、今となってはあれが本当に吉田茂邸だったのか、おぼろげです。もしかして、別の家と見間違えたのかな」
「まあ、何でもいいさ。人生に答えなどないし、終着点などどこにもないのだから。せめて道のりを楽しもうじゃないか。もうすぐ、どこかに着くだろう……」
 大磯をあっという間に通り抜けてしまっても、まだまだ海岸は続いていた。

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