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自分の20代を振り返ってみる。



皆さんこんにちは。
今回は、先日30回目の誕生日を迎えたということで、自分の20代を振り返ってみようと思います(お祝いコメントくれてもええねんで)。


恥の多い生涯を送ってきました」という冒頭で始まる小説と同じように、人に自慢出来るような人生は歩んできていません。けれど、思い返すと本当に色々なことがあり、その度にもがいて、あがいてきました。


そんな私の"10年"を読んで、ある人は反面教師に、またある人は一つの希望にしていただけたら幸いです。


はじめに


まず初めにこの記事の注意事項をお伝えします。

①エッセイではなく備忘録として書くので
  読みづらい箇所があるかもしれません。
②所々に当時の写真が出てきますので
  お目を汚すかもしれません。
③夜職を否定するような言い回しがありますが
  私は今でも夜職を立派なお仕事だと思っています。


以上3点をご了承いただき、最後までお楽しみください🙇🏻‍♀️





20歳



19歳から20歳になった瞬間はとても不思議な感覚になったことを覚えている。18歳から19歳の時とはまるで違う。良い意味でも悪い意味でも"もう子供では居られない"という焦りが私を飲み込むような、そんな感覚で、うっすらと恐怖すら感じた。


学生時代は早く大人になりたかった。けれど、実際に20歳になった自分は学生時代に思い描いていた"大人"ではなかった。

中学生みたいなハタチ


20歳になってから、あるいは20歳になる年にまず行われるイベントと言えば、成人式だ(現在は18歳)。


母親から「出ないよね?振袖なんて高いもの買わないからね。」と言われていたこともあり、私は元々成人式には出る気がなかった。会いたい同級生も居ないし、何より、今の自分の姿を旧友に見られるのが嫌だった。



この頃の私の職業は風俗嬢。業界に入って1年半が経とうとしていた。バーやキャバクラで働いていた頃は、小学校や中学校の同級生とも関わりがあったが、風俗で働きだした途端、大半が離れていった。離れる時、心無い言葉も沢山聞いてきた。

噂がどこまで広がっているかわからない。バカにされたり、軽蔑されたり、また心無い言葉を向けられるかもしれない。だから、成人式には行きたくなかった。

今思うと「そんなに怖いなら胸を張れる人生を歩めよ!」と言いたくなるけれど、当時の私はそんなちっぽけな恐怖と日々闘っていた。

いや、闘ってはいない。怯えているだけだった。

ただ怯えて、怯える原因から目を逸らし、その場しのぎの毎日を過ごす。学生時代に思い描いていた"大人"になりきれないまま、時がひたすらに過ぎていった。




21歳



一年が経っても、相変わらずの生活を送っていた。ただ一つ変わったことと言えば、ネットを始めたことだった。

趣味であるアイドルや歌、アニメについての雑談ライブ配信。私の特技の一つでもある声真似なんかもやっていたから、それなりにリスナーも居た。職業は勿論隠していた。


その中で仲良くなったごく一部の人間にだけ、職業を明かした。すると決まり文句のように「そんな仕事辞めなよ!」「もっと普通の仕事をしてほしい」「長く続ける仕事じゃないでしょ?」等の言葉が飛び交う。


今でこそ、自分のことを考えてくれている素敵な言葉であり、有難いことだとわかるけれど、当時の私はそれらの言葉は聞き慣れてしまっていたため"普通ってなんだよ""風俗も立派な仕事でしょ?""彼氏でも親でもないあんたに関係ない"等、完全にひねくれた思考を持ってしまっていた。


口では「だって推し活お金かかるし〜」とか楽観的な自分を演じて、流していた。何かと自分の良いように都合をつけて、逃げていたのだ。



頭ではわかっていた。確かに長く続ける仕事ではない。人に言えない(言い難い)仕事という時点で、普通の仕事ではないだろう。でも、どうしても辞める決心がつかなかった。


10代の頃から夜の世界にどっぷり浸かっていた私には"真っ当な生き方"が何なのか、何から始めればいいのか、わからなかった。


この生活がいつまで出来るかなんて保証はない。まるでボロボロの吊り橋を渡っているかのような人生。一歩でも踏み外したら奈落の底。すぐ横にしっかりした橋があるのにも関わらず、飛ぶ勇気がない。だって、飛び方を間違えたら落ちるかもしれないじゃない。


そんなことを考えながらまた、時はひたすらに過ぎていった。



22歳



22歳になる頃には、もっと事態は悪化していた。両親が極度のギャンブラーになり、自分の稼ぎの1/3が両親の軍資金として消えていた。地方に出稼ぎに行き、75万を持って帰ってきたとしても、そのうち25万を持っていかれるような状態だった。


それゆえ家族喧嘩も日に日に増えていき、家庭環境は過去最悪となっていた。ある日、母親が私の趣味であるアイドルのポスターを破ってこう言った。

「あれもあの子もこの子も居らんかったら良かったのに!そしたらあんたが使ってる金、全部私のものやったのに!」



唖然とした。怒りすら湧かなかった。私はなんだかんだ言っても母親のことが大好きだったのだ。だから今までも「こんなに渡すのはおかしい」と頭でわかっていながら、それでも母が喜んでくれるのが嬉しくてお金を渡していた。


しかしこの頃の母は、私のことを娘ではなく"財布"としてしか見ていなかった。それが分かった時、初めて自分の置かれている状況を直視した。



周りを見渡すと、すぐ飛べる位置にあったはずの橋は、ずいぶんと遠くになっていて、とてもじゃないが自分の力では乗り移れない。自分の乗っている吊り橋も、以前よりももっとボロボロになっていた。この吊り橋は、私の心だろうか。もう壊れるのは時間の問題だった。


最初から長居するべきではない橋だとわかっていたはずなのに、その現実から目を逸らしたのは紛れもなく自分だ。でも、もう誰かが手を差し伸べてくれないと、下で受け止めてくれないと、無理かもしれない。自分ではどうすることも出来ず、そこに座り込んで、ただ自分の行いを悔やむことしか出来なかった。





23歳



前にも進めない、後ろにも戻れない、横にも飛べない。そんな八方塞がりだったある日、声が聞こえた。

「飛べ!」

その声の方向を見ると、彼が立っていた。彼は目が合ったことを確認し、もう一度私に向けて叫んだ。

「飛べ!俺が受け止めるから飛べ!横の橋に連れて行ってやる!」


私は言われるがままに持っている力を振り絞って飛んだ。すると彼は「ジャンプ力えぐいなぁ!」と笑い、横の橋に連れて来てくれた。


自分でも予想していなかった。自分はボロボロの橋にしがみつくことで精一杯で、飛ぶ力なんてないと思っていた。




彼に出会った私は、まず家を出ることにした。何を言われるか分からなかったから、夜逃げのように家を出た。


次に、お店を辞めた。半ば強制的に「彼氏が出来たのでもう出勤しません。パネルおろしてください。」と言い捨て、LINEをブロックし着信を拒否した。ここまでしないと、足を洗えないような、そんな気がした。

それから、自分の周りの人間関係を見直した。同業者、スカウト、お客様、風俗で働いていることを知って「汚い」と嘲笑っていた人、お金や身体目当てで寄ってきた人…言い方は悪いけれど、ろくな人間関係を築いていなかった


高校の同級生ですら「お金貸して」「一発ヤラセて」。こんな状態だった。そういう人達を全員切って、更には誘惑が多いネットも辞めた。すると私の友達は誰一人として居なくなり、LINEの友達は家族と彼のみになった。


ここまでする必要があったのか?と今となっては思うけれど、当時は必死だった。私の中で相当な覚悟だったんだろう。せっかくしっかりした橋に連れてきてもらったのに、またあのボロボロの吊り橋に戻るわけにはいかない。だから、ボロボロの吊り橋から手招きしている影を、全部振り払ったのだ。




そして派遣会社に登録し、早速紹介してもらった食品工場へ面接に行った。面接は当時の工場長が担当してくれた。当時の私はというと、急なことで美容院に行く余裕が無く、どぎつい金髪だった。

目に生気がない当時の私


当然受からないと思ったけれど、その日の夕方に「是非来てくれますか?」と連絡があった。


私の報告を聞いた彼は「これでやっと横の橋に足が着いた。俺は飛んだお前を受け止めて、横の橋に投げただけ。着地したのはお前自身やで。そして、ここから真っ直ぐ歩いて向こう岸に辿り着くか、ふらふら歩いて奈落の底に落ちるかはお前次第やからな。」と言った。



どれが正解かはわからない。でも私は、恐らくこれが正解なんだろうという歩き方を、ボロボロの橋から散々見てきた。見よう見まねしか出来ないけれど、やってやろうじゃないか。


こうして私の昼職人生、アルバイト生活が始まった。





24歳



まず初めにぶち当たった難関は、規則正しい生活だった。10代の頃から夜の仕事をしていて昼夜逆転生活をしていた私にとっては、朝早くに起きることがこの上なく苦痛だった。それでも、ここで足を踏み外したら奈落の底。

毎日夜21時にはベッドに入り、朝6時半に起きる。不慣れな生活をしているせいか、週末になると体調を崩すような日々が続いた。けれど、これからはこの生活に慣れねばならない。「ここが頑張り時だ!」と自分に言い聞かせ、毎日必死に働いた。



夜のお仕事をしていたはずなのにドがつくほどの人見知りの私は、中々職場で話すことが出来なかった。3ヶ月位は挨拶や業務連絡だけ交わして、休憩時間は一人で居たと思う。まだ暑い時期に入ったのに、季節はすっかり冬になっていた。

私が入った部署には、とても明るい性格でキレイな30代前半の事務員さんが居た。ある日、その事務員さんから突然話しかけられた。

「忘年会するんやけど、葛ノ瀬さんも来えへん?」

………くっそ楽しそうやんけ!!と思った私。人見知りだけど、誘われたら嬉しくてホイホイ着いていってしまう。悪く言えば断れないタイプ。きっとこういうタイプだからこそ、これまで人に流されて生きていたんだろう。

けれど今回は違う。昼の仕事での初めての飲み会。それは、私にとっての初めての"職場の飲み会"なのだ。



「飲み会だるいわ〜」と言っている友達を横目に、うっすらと憧れを持っていた。夜の街で「二次会行くで〜!」と盛り上がっているスーツ姿の団体を横目に、羨ましいなと思っていた。そんな私が、こんなに早くに参加出来るとは思っていなかったのだ。だから、嬉しい以外の感情がなかった。



待ち望んだ忘年会当日。お酒を飲むこと自体が久しぶりだった私は、開始早々にほろ酔いに。その場が楽しくて仕方が無かったのを覚えている。


当時の副工場長も私と同じく、その場を楽しんでいて早くも酔っ払っていた。この人は、酔うと熱くなるタイプだ。突然私の所に来て「葛ノ瀬!よくぞこの会社に入ってくれた!現場が明るくなった!」と言う。

人見知りの私が入ったことで明るくなったなんて、そんなはずはない。だって、周りとの距離感を未だ縮められていないのだから。なんなら、この忘年会をもって縮めるつもりだったのだから。


すると酔った副工場長は続ける。「黒い頭の中に一人金の頭!目立つ!明るくなった!」………いやそっちかい!とツッコミを入れようかと思ったが、すぐに「って言うのは冗談!」と、訂正が入った。


話を聞くと、副工場長は私の見た目と職歴に不安を抱いていたらしい。そして慣れない生活で体調を崩しがちだった私は、少なからず酷い時にはお休みを頂いていた。そのため「すぐに辞めるのではないか…」と思っていたそうだ。

まだまだ絶賛ハイトーン中


こんな見た目の人間が入ってきて、早々に体調不良で欠勤まであるとなると、不安になる気持ちも大いにわかる。副工場長の思いを聞いた他のメンバーも「俺も!私も!」と、次々に口を揃えていた。


きっと面接の時点でも、採用して大丈夫なのか?という議論が行われていたことだろう。それなのに何故受け入れてくれたのか、この時はまだわからなかった。



そのあとも散々いじられ、申し訳無さでいっぱいになっていた時、フォローするかのように副工場長がこう言った。

「だからこそちゃんと続けてくれて、真面目に働いてくれて、めちゃくちゃ嬉しいし、これからも頑張ってほしいねん。何か困ったことがあったら言うんやで?それから皆とコミュニケーションとって、仕事を楽しんでくれたら、俺はもっと嬉しい。」

他のメンバーも大きく頷いているのを見て、アルコールのせいなのか、それとも感動したからなのか、気付いたら涙が出ていた。私は"社会デビュー"をこの会社で出来て良かったと、心からそう思った。





25歳



社会に出て一年が経った。この頃になると、ちょっとクセの強い上司、私の業務内容やスキルアップを気にかけてくれる先輩、仲良く接してくれる同僚、慕ってくれる後輩など、夜のお仕事をしていた頃とは人間関係がまるで変わっていた。


自分が変われば周りも変わる"とはまさにこのことで、しっかりした橋の上で躓きながらも真っ直ぐ歩き出せている自分のことを、ようやく好きになってこれていた。


今の自分なら、人の顔色を伺ったり、人の意見に流されたりせずに、真正面から色んなことに向き合える気がした。幼い頃から怠け者で何事も続かなかった自分が、こんなにも一つのことを頑張ることが出来るなんて。20歳の頃は思いもしなかった。


この頃の私は、本職の食品会社に加えて、配送会社の事務も掛け持ちで行っていた。離れて暮らすことで関係が修復した両親も「あの芽依が…」ととてもびっくりしている様子だった。

ようやく見た目も落ち着いた様子



忙しなく日々が通り過ぎる中で、ふと自分には趣味が無いことに気付いた。10代の頃に好きだったジャニーズは、変わらず好きではあるものの完全に茶の間。現場には行けていなかった。夜のお仕事をしてからハマったアニメも、昼職を始めると同時に見なくなっていた。


何か自分が没頭出来るものはないかと、YouTube等を漁った。その時に出会ったのが【モーニング娘。】だ。佐藤優樹ちゃんを見て度肝を抜かれた。なんて自由自在な表現だ。この子は"場を支配する能力がある"。そう思い、来る日も来る日も佐藤優樹ちゃんを調べ、どんどん沼にハマっていった。


長年男性アイドルを追いかけていたお陰で消えかけていた"アイドルになりたい"という夢もフツフツと蘇ってきた。しかし、私はアラサーで元風俗嬢。そして私が毎日見ているアイドルの彼女らは10代だ。とても同じ土俵に立てる世界では無い。

せめて、ずっと好きだった歌をもっと上手く歌えるようになりたい。キーが高く、中々思うように歌えなかったアイドルの歌を、ちゃんと歌えるようになりたい。そう、強く思い始めた。

それを聞いた元ミュージシャンの彼が「練習付き合ってやる!」と言って、定期的にカラオケでレッスンをしてくれることになり、平日は朝から夕方まで本職、そして夕方から夜21時まで掛け持ちバイト。週末になったら彼とカラオケに行く…そんな日々を送った。





26歳



しっかりとした橋に降り立って早2年が経った。最初は歩き方から覚え直しているような感覚で、恐る恐る歩いていた。この頃にはどんどん歩き方を思い出してきて、橋からの景色も楽しめる程になっていた。仕事と趣味の両立が出来て、毎日が充実していた。



そんな中、本職での突然の異動が決まる。正確に言うと、部署はそのままで現場作業から事務への異動だ。事務は配送会社でもやっていることから大丈夫だろうと判断し、二つ返事でOKして26歳の誕生日を境に、事務員になった。




簡単な事務作業だと聞いていたのにもかかわらず、工場長から予想だにしない指示を受けた。

「生産管理を担当してくれないか?」

………いや、アルバイトですが?なんなら派遣ですが?


一度考え込んでしまったものの、次に続く言葉でやる決心がついた。

「俺はお前を初めて見た時(面接の時)から"何か出来る子"だと思っていた。この世に納得していないみたいな、自分を変えたいみたいな、絶望の中の希望を探しているみたいな…そんな目に見えた。だからお前なら出来る。正直、普段なら金髪ギャルは取らないけど、お前だから取った。周りにごっつ反対されたんやで〜。」

驚いた。自分をこんな風に見てくれる人が居るなんて。彼に言うと「その人見る目あるなぁ!」と笑っていた。




絶望の中の希望。確かにそうだ、私はあの頃、絶望の中にいた。けれど彼という希望を見つけた。けれど彼は希望そのものではなく、一筋の光だった。光が照らしてくれていたのは、しっかりした橋だった。その橋の先で希望そのものを見つけ出すのは自分だ。そう思って、面接に挑んだ。


ちゃんと伝わっている。見てくれる人は見てくれている。ここにも希望の光が居た。だから生産管理の担当も「やります!」と勢いよく返事した。自分の希望を、信じたかった。





27歳


生産管理の仕事を必死に覚え、事務作業も板についてきた頃、直雇用の話が出た。断る理由も特にないため、27歳になる年の4月をもって直雇用アルバイトとなった。しかし、幸先が悪いことにせっかくの希望が雲隠れする出来事が起こった。

新型コロナウイルス

製造ラインは止めざるを得ず、派遣アルバイトはたちまち切られ、直雇用アルバイトと正社員のみ。偶然というか必然というか、コロナの流行がもう少し早ければ私は切られていたということになる。神様が「お前はもっとここで頑張るべきだ」と言っている気がした。


それは気のせいではないぞと言わんばかりに、コロナ禍プロジェクトチームが発足され、私はそのチームの一員となった。このピンチをチャンスに!普段出来ないことをしよう!というコンセプトのプロジェクトチーム。

…………いや、アルバイトなんですが?と、またまた思った。けれどここにも私の"足掻き"が伝わっている人がいた。プロジェクトチームリーダーだ。



私とは別の部署だった彼もまた、私の目が良いと言ってくれていたそう。「思うがままにやってみろ」というチームリーダーと工場長の言葉通り、私は思いつく限りの提案を沢山した。

中にはやはり、それが面白くない者も居る。如何せん私はただのアルバイトだ。なんの責任も取れなければなんの知識もない。そんなひよっこを信用する人間の方が少ないだろう。



でも私は悔しかった。折角上司達が照らしてくれた希望の光を、妬みなんかで消したくなかった。だから休日は生産管理やパソコンは勿論、食品業界のことを沢山調べ、勉強した。カラオケに行けない分、ひたすらに、勉強した。

生まれてはじめてのワクチン



それと同時にコロナ禍だからこそ、ネット活動をまたやってみたいと思った。私には夜職から昼職に変わったことに関しての苦悩や成功、当時の心境、22歳上の彼とお付き合いを始めたことに関しての知識など、共有出来るものは沢山あった

それをどうやって伝えていけばいいだろう?と模索した結果、こうしてnoteに記事を書くことで少しでも誰かが目を通してくれることを願い、まずはnoteのアカウントをつくった。






28歳



やはりnoteに記事を投稿するだけでは宣伝力に欠ける。如何せん私は一度ネットから身を引いた人間で、友達も昼職を始めると同時に切っていたため、集客に困った。

声真似こそ出来なくなったが、経験があるためライブ配信のノウハウはある。まずは、ライブ配信でリスナーをつくってからnoteに誘導しようと思い立った。この頃の私は思い立ったら即行動を起こすことが出来るようになっていたため、すぐにアカウントを作成し配信を始めた。


最初は苦労したものの、徐々に固定リスナーを獲得出来た。雑談枠や相談枠、ずっとやりたかった歌枠もして、更なる趣味として毎日配信を頑張っていた。




本職はというと、勉強した成果が実ったのか、難しい会議でも発言が出来るようになっていた。それを見た工場長が、今度は正社員にならないか?という提案をもってきた。


ついにきた。目標の一つだった、就職。私の最終学歴は高校中退。長年夜の仕事をしていたため、職歴もない。そんな私にとって、アルバイトからの就職は喉から手が出るほど欲しい称号だった。


生産管理を担当していることや、コロナ禍でプロジェクトチームに入ったこともあり、打診する材料はじゅうにぶんに揃っていて、すぐにでも掛け合えると言ってもらい、直雇用アルバイトになってちょうど一年の4月に、正社員として採用してもらった。


正社員になって、特に変わったことと言えば、同僚たちの風当たりだった。生産管理を担当しはじめた頃は、同じ立場の人間に指示されることが面白くなかったのだろう。辞めようかなと考える位の風当たりの強さだった。それは、プロジェクトチームに入った時にも感じていた。だからこそ、沢山勉強して、職務態度も見つめ直し、コミュニケーションを大切にした。

正社員になったことにより、色んな人に「おめでとう」と言ってもらえた。上の人間に認めてもらえただけでなく、同僚にも認めてもらえたような、そんな気がした。





29歳


正社員になって一年が経つと、新入社員という肩書きが外れる。そうなると大変なことと言えば"いつなんどきでも評価対象"ということだった。例えば、直属の上司が休んだ時の対応力やアルバイトに対しての口調、他部署との関係性やお客様に対しての立ち振る舞い。全てが評価基準になる。


アルバイトの頃は与えられた仕事があり、それを与えた本人の基準内に収まっているかそうでないかという評価基準だったように思う。新入社員もその延長だ。

例えば「この資料をつくってくれ」と言われた時、与えた本人が思うより分かりやすく、且つどれだけ丁寧に作成出来るか。その期待を越えることが出来れば「あの子は仕事が出来る」というハンコを押してもらえる。


しかし、新入社員ではない正社員となるとそれはもう当たり前の話で、上記に書いたような日常的なところも含めての評価基準になる。所謂"行動評価"というやつだ。




これは、自分の性格を丸裸にすることでもある。私には短所があった。感受性の強さと正義感の強さ。

一見、優しく責任感のある人間に見えるかもしれないが、社会ではそれが悪目立ちするということがわかった。社会はいつでも理不尽で成り立っている。派手な正義感は邪魔なだけだし、その理不尽に振り回されてしまう感受性の強さも、いつか自分を崩壊させる。だから社会人をする上での私の短所である。



しかし、長所もある。めんどくさがり屋で気が強く頑固。人間的には短所かもしれないが、めんどくさがり屋は裏を返せば効率厨。そして気が強く頑固という部分も裏を返せば忍耐強い。これらは社会人をする上で長所だ。


一回目の行動評価で、直属の上司にこんなことを言われた。

「お前の短所は、感受性の強さと正義感の強さ。でも本当の短所は気の強さ故にその短所を発揮してしまうところ。もっと感情をコントロール出来る人間になれ。」

その通りだった。納得すると同時に、それを言われている自分に驚いた。上記に挙げた短所も長所、どちらも子供の頃からの性格で、本来の自分だった。夜のお仕事をしていた時は自分を見失っていたのだと、そこで初めて気が付いた。


正義感が強い人間が、気が強く頑固な人間が、どうして人の顔色を伺ってボロボロの橋の上で震えていたんだ。感受性の強い人間が、どうして自分の状況を見て見ぬフリをして、感情を誤魔化して母親にお金を渡していたんだ。

これに気付いた時、私は私になれた気がした。正社員になって、自分の性格を自己認識することで過去の自分をも自己認識した。それにより、30代を目前にして私は「あれ?私、ちゃんと"私"出来てんじゃん。」と、ようやく本来の自分を取り戻していることにも気が付いたのだ。





30歳


20代前半は自分が自分でないまま、色んな人に迷惑をかけた。偽りの世界にいたから、偽ることは仕方がなかったのかもしれないが、偽りの自分で他人と接していた。そりゃあ偽りの関係しか築いていけないのも納得だ。

彼と出会ってから世界は変わって、自分を取り戻す旅に出た。最初は恐る恐るだったが、まず自分に歩ける足があることを確認した。ちゃんと両足で歩ける。そしてここはボロボロの橋ではなく、しっかりした橋だ。棘だらけの柵を持つ必要も無い



自分の力でそこに立って歩いていく。転けそうになったら棘だらけではない、鉄の手すりが支えてくれた。そうして色んな人に助けられながら歩いてきた。すると気が付いた時にはもう本来の自分を取り戻していた。

ふとボロボロの橋を見ると、随分と遠くに離れていて、そこにはもう自分の影は居なかった




10年前、20歳になった頃はお先が真っ暗で30歳になる自分を想像出来なかったし、想像しようとするだけで怖かった。20歳の時になりきれなかった、10代の頃に思い描いていた"大人"とは、自分の足で立って、自分の意見で生きて、自分を重んじる人だった。




あがいて、もがいて、自分を知って、ぶつかって、転んで立ち上がって、時には後ろを振り返りながら前に進んで、やっと"大人"になれた。

他人より10年も遅れてしまった私の人生は、とても自慢出来るものではない。それから自分自身も、誇れるような人間では無い。この先も自分を見失っていた過去やこの10年の遅れが行く道を邪魔したり、重荷になることは間違いないだろう。

けれど今はこの恥の多い生涯を抱きしめて、30歳になった自分に、この言葉をあげようと思う。





今までよく頑張った。成人、おめでとう。

まじで新成人みたいな顔すな



この記事が、今ボロボロの吊り橋にしがみついている人に届きますように。




おわり

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