自己分析という名のラベル貼り

ぺたぺたぺた。
ああ、今日も自分にラベルが一枚増えた。

「あなたは、内向型人間です。」

ペタ。

私は現在大学3年生。周りは就活解禁に向けて、いそいそと説明会やESに取り組んでいる。

私はまだ、していない。

就活の選考で、ある人を判断するとき、その人がどんな人なのかを、採用担当者は、属性やラベルで判断する。

ラベルが明確な人ほど、「わかりやすい」人だ。

1日に何十枚、何百枚ものESを見る採用担当からすれば、自社に合う特性が「わかりやすく」示されている方が、良いのだろう。

でも、

人間って、そんな単純だっけ。
便宜的なラベルで判断できるほど、単純な人生を生きてないでしょう。

日常の小さな経験、取るに足らない小さな感情の揺れ動きなどが、救いあげられないまま、

「この人は内向型の〜さんね。」
と勝手に判断されることが、

私には、耐えられないのです。

「甘えるな」「それの怪しさはたしかに分かるけど従っておきなさい」

そんな言葉が聞こえてきそう。

でも、それって"思考停止"じゃないか、と思います。

その人のことを、本当に知ろう、ひとりの人間として尊重しようという姿勢を持ってたら、少なくとも、こういう形式の就活のあり方に異を唱えて、違った仕方で採用をするべきだと思うんです。

会社で働くコマとして採るのではなく、
ともに会社のビジョンを追求していく同志として見、個としての生き方を尊重してくれる人たちと、私は働きたいし、
私が採用する側なら、そういう姿勢は忘れずにいたい。

つくづく思うのは、就活は引き算評価なんじゃないかということ。
学歴、コミュ力、容姿、怠けない、障害がない…
挙げたらキリがないが、

あらかじめ「持てる者」が有意な地点におり、
「持てない者」は自然淘汰で差し引かれていく。

そんな仕組みが日本の就活でまかり通っているのは、

その人が「どう生きたいか」を重視しそれをこの会社で共にやっていこうと巻き込んでいくのではなく、

その人が「いかに会社にとって使えるか」という視点でその人を見ているからだろう。

こんな社会、嫌だ。

私はもっと、みんなが自分の

「生きたい姿」を持つことが当然になる社会
「生きたい姿」を共に構想することができる他者とちゃんと出会える社会

を作ることに、時間を割きたい。

こんな当然のことから始めなきゃいけない社会に絶望してしまいそうになるけど、

実際なかなか私の周りでは実現されていない気がする。

私を突き動かしている強い力は、昔から変わっておらず、

「人と人とがちゃんと本心で、本質的なところで繋がれるにはどうしたらいいの?」という問いかけから来ている。

この問いが私の中心にあるのは、私が不幸なことに他者と繋がれなかったからではなく、社会が、人と「ちゃんと」繋がれなくなっているような直感があり、それは私たちにとって危機だと本気で思うからだ。

今の社会には、
「失敗したら、間違えたら、もう取り返しがつかないからね。」
「自由だけど、自己責任でやってね。」
「趣味に割いてる時間があったら、受験勉強しなさい。大学行かないなんてだめよ?(断定)」
「それ、将来お金を稼ぐことにどうつながるの?」

わーお。
こんな言説が転がり落ちている。
避けようにも、避けられない。やばいよね。

こんな言説が溢れかえっている荒野にほっぽり出されて、
「さあ、生きろ、行け」
と言われても、え?無理でしょ。

ここを力強く孤独に耐えながら進んでいける猛者がいることは確かだ。

でも、ここに疑問を抱いて立ち止まってしまったり、そもそも孤独に耐えきれない人だっている。

私は、そういう人たちを切り捨ててしまう世の中が心底嫌なのだ。
だって、こんな社会を認めたら、
いつか自分が弱者になったとき、
同じように切り捨てられることが目に見えるし、自分の大切な人たちが切り捨てられ、苦しみ、自分の生を生きられなくなるのが心底嫌だから。

私はだから、ここの社会の「おかしさ」に声をあげ、よりよい方向へ進むことに貢献したい。

この価値観を実現できることを仕事にしたい。

さて、それをいかなる方法でするかを、
これから考えていかないといけない。

もう少し、サーチしてみようと思う。
また、その結果はnoteします。

それでは今日はとりあえずこんな感じで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?