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「知」ってなに?|関 真彦

関 真彦
経営学部准教授・現代アメリカ文学

もうずっとはるか昔、私はある大学の文学部に入った。

というか入ったつもりだった。

しかしその大学では最初の二年間、教養学部に入れられ、小説を読む授業なんて週に一回あればいいほうで、ずっと政治だの法律だの仏教だの、当時の私にとっては何の役に立つのかわからないことを学んでいた。なんでこんな興味のない授業を受け、粛々とテストを受けて単位を取らねばならないのだ、大学っていうのは義務教育の延長線上にあるのか、そう思った私に大人たちはこれは「知」のためである、と物知り顔に言うのだった。確か『知の技法』なんていう本も買わされた気がする。

それでは「知」ってなんですか、それは将来何の役に立つんですか、もちろんそんなことを正面切って聞くほど私は愚かではなかった。
そう聞いたときの教授たちの反応なんて容易に想像できる。サービス精神に欠けている人たちは露骨に嫌悪感を丸出しにして何も言わずに去るだろう。返答してくれたとしても、そういうことを聞くということはきみにはまだ「知」が足りないのだから一生懸命勉強しなさい、くらいのことを言われるのだろう。そういう反応を予期するくらいの知性は私にはあったので、逆にずっと「知」という言葉で偉い人たちが何を意味しているのか謎のままだった。

正直、今でも「知」が全体として何を指しているのかはまったくもってわからない。たぶん定義なんてなくて、いろんな人がいろんな意図で便利に使っている言葉なのだろう。ただ、大学を出てから長い年月が過ぎて、あの頃学んだ何の意味もないと思っていた授業の価値が少しずつわかってくると、「知」の"本質"も「知」の"技法"もわからないけれど、「知」の"作用"の一端くらいはおぼろげに見えてくる。

私たちはいろんな価値観に縛られている。価値観の奴隷と言ってもいい。親の教えでも社会の教えでもいいけれど、小さい頃から培われてきたさまざまな価値観が交錯するその中心に、私たちがとらえられている。たとえば、あることを正しいと思うとき、それは自分の価値観がそう言っているわけだ。そしてもちろん、その価値観は絶対ではない。いくらそれが絶対的に正しく思えたとしても(もちろん「人を傷つけてはいけない」などの相対化してはいけない価値観もある)。「知」にはそうした価値観に縛り付けられた自分を遠くから客観視して、自分がどういう価値観の影響のもとにあるのかを知り、ひいては自分を解放するという作用があるのではないかと思う。

あまりに抽象的なことばかり言っていても雲をつかむような話になってしまうので、例を出そう。たとえば、「良い映画」とはなんだろうか。泣ける映画? ためになる映画?爽快感のある映画?

よく言われることだが、泣ける映画とか爽快感のある映画は必ずしも良い映画ではないと私は思う。もちろん『ワイルド・スピード』とか『アベンジャーズ』を映画史に残る名作であるなんて言う度胸のある人はいないだろうけど、割と泣ける映画は名作であると思い込んでいる人は多い。

しかし、昔、蛭子能収氏が深夜番組で『運動靴と赤い金魚』という映画を見てわんわん泣きながら「でもこの映画はずるい。子どもがつらい目にあってたらみんな泣くに決まってる」と文句を言う姿を見て大笑いした記憶があるのだが、つまりはそういうことだ。子どもとか小動物とかは慈しむものだとみんな思っている。だからかれらが健気にがんばっているとか悲しい目にあっている姿は涙を誘う。
もちろん、子どもとか小動物は庇護すべきものだという価値観は一般社会の規範に照らして正しいのだけれど、そのとき、私たちはそうした価値観を映画によって補強されている。自分の価値観の正しさを再確認しているのだ。だからすっきりと泣ける。そういうとき、「子ども」という概念の持つ複雑さとか「庇護すべき子ども」というイメージがいつ誕生したかとか、そういう面倒な側面はいっさい排除される。画面の中には純粋無垢でかわいそうな子どもとか小動物がいて、私たちに泣く機会をこれでもかと提供している。そういう映画は、ありていに言ってしまえば、水準が低い。

本当に観客を知的に刺激する映画というのは、むしろ観客の価値観に挑戦し、揺るがすような映画だと思うのだ。そうすることで観客はどのような価値観が自分に働いているかを認識できる。

このままだと、まるで私が子どもを虐待する映画こそが素晴らしいと言っているかのように見えかねないので、もうひとつ例を挙げたい。私は『ロッキー』が大好きだが、それはやはり男性的な価値観に深く影響されているからだろう。男性向け映画というのは要は少年漫画なのだ。
『ドラゴンボール』は悟空が強敵を倒すと次にまた強敵が出てきて、という繰り返しの漫画だ。悟空を支配するのは「今のままではダメだ」という思いで、かれは厳しい修行を積み重ねていく。『ロッキー』を見たことがある人なら、映画がまったく同じ筋道をたどっていることに納得してもらえるだろう。とにかくそのままではダメだというのが男性向け映画や漫画に共通するメッセージで、それは男性の心に響く。

こんな風に私たちは自分たちの持っている硬直した価値観を優しく慰
撫されるような物語を好む。しかし、それではいつまでたっても私たちは価値観の軛(くびき)につながれたままだ。

「知」には挑戦的にそういう価値観を揺るがす作用がある。そしてそういう「知」は雑多な知識を吸収し、知性を働かせることでしか身につかない。あの意味のわからなかった大学での二年間は、振り返ってみればそういうことを私に教えるためにあったのだと思う。

関 真彦
経営学部准教授・現代アメリカ文学

『学問への誘い』は神奈川大学に入学された新入生に向けて、大学と学問の魅力を伝えるために毎年発行しています。

この連載では『学問への誘い 2020』からご紹介していきます。