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「夢見るおじさん」【9月27日(金)】

 夢見が最高な朝の覚醒は最悪だ。

 俺は毎日夢を見る。毎日というのは厳密には誇張表現だが、ある年実際に記録をとってみたところ、360日/366日(たまたまその年は閏年だったのだ)は確実に夢を見たから、まあ日常的な語法としては、特にことわりなく「毎日」といってよいだろう。こんなに夢を見るからには、医学的には好ましくない寝方をしているに違いなくて、例の睡眠外なんとかにいけば、睡眠時無呼吸症候なんとかと病名がついて、シーパッなんとかという器具を装着して寝ろと言われるのだろうけれど、まあ今のところ身体は健やかに動いているのだからそれでよかろう。俺はお医者さんがきらいなんだ。

 ともかく毎日夢を見るのだけれど、そのほとんどは午の刻を過ぎる頃にはもうすっかり忘れてしまって、今のところ現実とされているこの世界の現実性を高めることに寄与してしまう。幼少期にネシャン・サーガを読んでいたく感動したのに、ヨナタンと邂逅するのはまだまだ先のようだ。

 それでも年に数回、想像しうるかぎり極大の悦楽を与える夢を見ることがある。平素見る夢というのは、ほとんど視覚のみで構成されているが、こうした悦楽の極致たる夢は、嗅覚や聴覚は言うまでもなく、触覚や味覚までもが現実とまるで異なるところがない。

 それほどまでに感覚的に現実的な夢を見ると、目覚めても夢と現実との区別に時間がかかりそうなものだが、あいにくかさいわいか、そういう場合はすぐに先程までのあれは夢だったのだと気づいてしまう。あんなに快いことは現実では起こらないからだ。そんなことが瞬時にわかってしまう自分の理性が少し悲しい。

 夢の世界の悦楽というのは、なんとも説明しがたい。リアルでエロい夢なんだろう、と言われると、確かにまあそれはそうなんだけれど、エロければそれだけで悦楽がもたらされるわけではない。俺は現実に存在する物理的肉体であるから、触覚や味覚や嗅覚といったフェティッシュな部分が俺の悦楽を構成しているのは間違いないけれど、同時に理性を働かせるという虚構の喜び、つまり人間性というやつの楽しみを知ってしまったインテリゲンツィアでもあるから、展開される内容のもつ意味というのも、俺の悦楽には欠くべからざる要素である。

 つまり、めちゃくちゃに完成度の高い映画を、当該映画の世界線で感じられるべき五感の体験つきで鑑賞するというようなもので、マトリックスのコンピュータどもが人間に対するホスピタリティに溢れた連中なら、きっとこんな夢ばかりを見せてくれるに違いない。もしそういう世界だったら、夢から覚醒させようとしてくるモーフィアスを、どんな手段を使ってでも俺はぶちのめしてやるに違いない。

 そんな、至上の悦楽を与えてくれる夢だ。

 そういう夢を見てしまった日というのは、もう最悪で、ずっと夢の中にこもっておきたいから、ベッドから起き上がる気力なんてまるでもてない。さっさと二度寝三度寝を決め込んで、先程までの逸楽の世界へイエリッツァ、と試みるのだけれど、現実というものはいけずなもので、同じ夢の世界に戻ることを決して許してはくれない。先程までのめくるめく悦楽の世界を志して睡眠の世界に逆戻りするのに、現れるのは寝坊して仕事に遅れそうになって必死に駅まで走り出すような、ため息が出るほど現実的なクソ夢だ。

 至上の悦楽の特筆すべき特徴は、その構成要素のすべてが、俺が現実の世界で実際に体験したり、読書や視聴を通じて追体験したりしたものばかりであるということである。「見たことも聞いたこともないような素晴らしい幻想の世界」などそこには微塵もなくて、「俺が今まで味わってきた無上の喜びの詰め合わせ」なのである。これまで現に感じてきた、喜び、楽しさ、切なさ、旨さ、芳しさ、
なまめかしさ、肌触りの良さ、当意即妙さ、天衣無縫さ、そういったものが理想のバランスで配置されているわけだ。

 これまでに経験してきた気持ちの良いことを夢の中で追いかけているだけ、といってしまえば、過去に囚われている哀れなおじさんであるが、夢という現実の対義語の中で感じる最大の悦楽が、現実の詰め合わせで成り立っていると考えれば、その逆説は、あるいは希望でもあるといえるだろう。

 ときどき投げ出したくなるような、この、どうしようもなく現実めいた現実の世界での体験が、いつか見る夢における悦楽の糧となるのだとしたら。

 あと何十年か経って俺がヨボヨボのジジイになったとき、夢で味わう至上の悦楽が更新されているのだとしたら、それはまあ十分すぎるほどに幸福な現実の人生だったと言えるのではないか。

 夢見の最高な朝の覚醒は最悪だ。

 だから俺は、睡眠外来には行かない。


 

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