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今日も暴力を振るって生きています。

 他人が死んだことを素材として何かを語ることの醜悪性について考えている。


 一億総評論家の時代が到来して久しい。大いなる人類の叡智により全世界に張り巡らされた、インターネットというおもちゃを得て、大人も子供も女も男も、俺たちは今語ることに夢中だ。自分の思ったことを広く世間に公開するという、あたかも露出狂じみた喜びを覚えてしまった俺たちは、もはや誰か(あるいは何か)の語る(あるいは騙る)「大きな物語」に満足してはいられない。日常の些事から政界の大事件に至るまで、俺たちは世の出来事を大いに語り、無責任に広げ、そして享楽的に繋がっていく(もちろん自分と異なった主張などは黙殺するか、しからずんば、虐殺するしかない)。
 他人の生死についても同じことで、大規模なテロ行為が発生したとき、天災によって甚大な被害がもたらされたとき、大企業の新入社員が過労を苦にして自ら命を断ったとき、俺たちは大いに嘆き、悼み、ときに憤る。そして訳知り顔で、その死の原因や背景を語るのだ。情動的にあるいは構造的に。そうすることで俺たちは、「熱血的な博愛主義者」や「冷笑的な全知の神」になって満足する。(もちろん「熱血的な博愛主義者」は、人身事故で遅延した列車に対する不満を同じ端末スマホで語っているし、「冷笑的な全知の神」は、今もどこかで起こっている目に見えない誰かの死のことなど知る由もないし知ろうとさえしない)
 要するに俺たちは、毎日どこかで誰かが死んだことを、ペットボトル飲料のように気軽に消費して生きているのだ。そのペットボトルは必ずしも使い捨てではなく、なまじ再利用もするから余計にたちが悪いし、飲みさしたまま日数が経って異様な臭気を放っていることもしばしばだから、手のつけようがない。どうにもしがたいほどに醜悪で滑稽で目を背けたくなるが、視線を逸らした先が鏡になっていて、こんなことを書いている自分が最も醜悪で滑稽なのだと気付かされるわけだから、なかなかどうして世の中というのは上手くできているのかもしれない。


 だいたいインテリというやつは球技だのマット運動だの武道だのというやつが苦手で、学校の体育の授業やら教師やらのおかげでいかに重大なトラウマを植え付けられたか恥をかかされたかなどを、ねちっこく呪詛のように語ることがほとんどである。数学の問題集が苦痛で仕方のなかった者や、国語の教師のおかげで読書がほとほと嫌いになった者のいることなど、俺たちには想像も及ばない。三角関数など役に立たないと言う者があれば地獄の果てまで追いかけて糾弾するのに、逆上がりが出来ない自分には目をつむるのだ。
 俺たちはそうした態度に崇高な合理性が存在すると信じて疑わない。かかる態度はすぐれた宗教的信念といえようし、日本国憲法は信教の自由を保障しているのだからこれはこれで結構なものといえるのだろう。合理的な振る舞いを心がけながらその実いかにも宗教的な言説を振りまいているのだから、これはもうまことにいじらしいとして微笑んでやるべきであろうか。


 言葉の暴力などという言葉があるが、いったい、言葉というものは元来暴力的な性質をもつものである。人混みで腕を振り回せば誰かの頭をぶん殴るのと同じように、広く言葉を放てば誰かの心を抉ることになる。ストレスで人は現実に死を選ぶのだから、力の性質が物理的なものであるか精神的なものであるかは、本質的な差異とはいえまい。
 言葉を除いた物理的暴力の不当性を語る際に、俺たちはときにその一方向性・対抗不可能性を論じることがある。なるほど、俺のように腕力の微弱な人間は、他者に殴りかかられたり蹴り飛ばされたりしたら対抗する術をもたない。また、いくら筋骨隆々たる体躯を誇っていても、喉元をナイフで裂かれればひとたまりもないし、銃を突きつけられればそれまでである。持つ者が持たざる者を一方的に支配関係に置くことこそが暴力の本質的害悪であり、したがって正当かつ正統な(あるいは政党な?)根拠に基づかない暴力は駆逐されるべきである。これは至極まっとうな考えであろう。


 多くの暴力否定論者は、暴力の有するかかる一方向性に対して、自由な言論の双方向性・対抗可能性を強調する。力をもつものだけが一方的に得をする暴力と異なり、言葉による対話は、双方にとって対等なものであり、互いの言い分を折衷することでより高度な結論に至る可能性を秘めているのだと、無邪気に信じている。果たして本当にそうなのだろうか。生まれた時から富める国でぬくぬくと育った者が語る言葉と、明日の命も知れぬ国を生き抜きつつある者が語る言葉は、同じ性質と言ってよいのだろうか。教壇に立って「正しい」ことをかたる教師と、座してそれに耳を傾けペンを動かす生徒との間に、対等な議論などというものが成立するといえるのだろうか。
 

 俺はインテリであるから、物理的暴力よりも言論の力が正当視される世の中はまことに生きやすい。殴り合いで敵わない相手でも、話し合いによってことを自分の意思通りに進行させることは極めて容易い。今殴り合いという言葉を用いたのは本当のところは正確ではない。腕力の劣る俺は、一方的に殴られるばかりで、相手を殴りつけることなどほとんどの場合できはしないからだ。はて、俺は話し合いをしているのだろうか。
 拳で殴ったり銃を突きつけたりすることこそが暴力であり、言葉の暴力とはそのアナロジーにしか過ぎないのであるとすれば、そうした構造こそが、まさしく暴力的ではないか。近代以降の社会は、物理的な暴力を悪として排除し、そのかわりに、言論という暴力を正義に据えた。俺たちは、そういう見えないルールの設定されたゲームをやっている。今のところこのゲームはそれなりにうまくいっている。いや、それどころか、俺の個人的な印象で言えば、このゲームは歴史上最高の神ゲーであると断言できる。これまでに繰り広げられてきた圧倒的なクソゲーの山に比べれば、だが。



 言葉という暴力を嫌ったところで、代わりに蔓延るのは、もっと一方的な別の類の暴力であろう。だからといって、そのことが、言葉の暴力性を否定するわけでは勿論ない。俺が毎日若人らに何かを教えているという事実は、とりもなおさず彼らに暴力を振るっているという事実であるし、教えている内容はといえば、言葉の使い方であり、それはまさしく暴力の振るい方に他ならない。
 暴力を振るうからには、そこに自覚と倫理とが求められなければならない。倫理無き暴力が招くものは混沌である。文明とは秩序の形成であるからには、我々が単なるヒトならざる人間であるために倫理が求められるのは当然である。
 ところで、倫理の普遍性については議論の余地があろう。俺(そしてほとんど全てのインテリぶった暴力主義者)はカントでもなければニーチェでもないから、倫理に普遍性があるともないとも断ずることはできない。断ずることが出来ない以上、倫理は相対化され再構成され続ける運命を免れない。その運命を唇を噛み締めて受け入れるのが俺たちインテリが共有すべきメタ倫理であろう。にもかかわらず、自分ででっちあげた特殊の倫理を天から与えられた絶対の使命と解しているかのような連中が掃いて捨てるほどたくさんいることに、俺はほとんど吐き気を催している。

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