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筒美京平について

 日本一のヒットメーカーといえば筒美京平だろう。レコードの総売り上げが7500万枚。作った曲はおよそ3000曲。ナンバーワンヒットが何と49曲。日本の戦後音楽史に大きな足跡を残した大作曲家である。
 そんな筒美京平のアシスタントを務めたことがある人物がいる。敏腕音楽プロデューサーとして知られている川原伸司(かわはら・しんじ)さんだ。「1974年頃に知り合って50年近くのおつきあいでした」。


 「若者文化が大きく変わりつつある時代に、日本の音楽も歌謡曲と演歌しかなかった時代に、シンガー・ソングライターの井上陽水が『氷の世界』で100万枚を売り上げたことで、業界の人たちが「第二の陽水」を作るべく躍起になりました」。
 「当時としては自分は新しい文化に対する情報量が多かった。今でこそネットがありますが、当時はアナログの時代だったことを考えるとです。それが世の中にどのような影響を与えるのかという判断を、今ほど選択肢の多い時代でなかったからしやすかったのです」と川原さんは語った。
 川原さんは続けた。「それまでの日本の音楽は詞とメロディーが楽曲のすべてでした。そこにサウンドとグルーブを持ち込んだのが筒美京平です。持ち込んだグルーブ感というのは、リズム&ブルースっぽいというか8ビートも含めてダンサブルなものでした」。
 いしだあゆみに書いた「ブルーライトヨコハマ」もそうだという。そしてアンサンブルも加わった。「今までが詞、曲のいわば2Dだったのならば、そこに奥行きが加わって3Dになったのです」。

 フォークミュージックや当時台頭しつつあったニューミュージックについて筒美京平はどう思っていたのだろうか。川原さんは答えた。「吉田拓郎さんにはびっくりしていました。男らしい作風でああいうのは出来ないといっていたので、一番脅威に思っていたのではないでしょうか」。
 「例えば「我が良き友よ」って「下駄を鳴らして奴が来る」って寮歌みたいなのを流行歌にしてしまう。また字余りのところを無理に入れ込んでしまう。京平さんには出来なかった」。
 ユーミン(荒井由実)については「読めちゃったんじゃないか」と川原さんはいう。「曲の作りでいうとああなってこうなってって分かっちゃう。中島みゆきさんにはけっこう憧れを持っていると思いました。脅威だったのではないでしょうか。自分では出来ないことが出来ちゃっていたから」。
 今シティポップがブームだが「京平さんはとっくにやっていた」。「日本のシティポップの元祖ってはっぴいえんど系だとか言われていますが、筒美京平や中村八大さん、平岡精二さんらだと思います」と川原さんは言った。
 筒美京平は「洋楽のイディオムを取り入れながら日本人に受けるものを作っていった稀有な作曲家でした。シングルのA面はともかく、B面やアルバムの中の曲は好きに書いていて、めちゃくちゃアカデミックです」。
 川原さんが選ぶ筒美京平作品ベスト3はー○小沢健二「強い気持ち・強い愛」○弘田三枝子「渚のうわさ」○ジュディオング「魅せられて」。




 小沢健二が筒美京平に曲を作ってほしいと言ってきたとき、川原さんは曲を聞かせた。すると「京平さんは「ああ、ギルバート・オサリバンね」って。永遠の少年っぽい声の質と作るメロディーなど、彼の世界観で判断していました。「強い気持ち・強い愛」を聴くと、京平さんが一生懸命に作ったのが分かるので、今でも涙が出てきます」。
 筒美京平はビートルズを聞かないといわれていた。川原さんが説明する。「ぱっと聞いていかにメロディアスか、強い音楽なのか分かったのでしょう。職業作曲家としてやっていくのに、強い音楽を聞いてしまうと影響されすぎてしまいます。職業作家というのはデパートみたいなものだから何でも出来ないといけないので、一つに影響されすぎるといけない」。
 川原さんによると、筒美京平はポール・マッカートニーとバート・バカラックが好きだった。特にポールの「マイ・ラヴ」、それとアイルランドのシンガー・ソングライターのギルバート・オサリバンもお気に入りだった。
 筒美京平は1940年生まれ。ジョン・レノンと同じ年に生を受けた。1960年代後半からグループ・サウンズ、歌謡曲、アイドル歌謡、J-POP、アニメ主題歌など幅広くヒット曲を書いた。
 代表曲に「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)「ロマンス」(岩崎宏美)「よろしく哀愁」(郷ひろみ)「真夏の出来事」(平山美紀)など多数。


 2003年、紫綬褒章受章。20年10月7日、80歳で他界した。

 
 

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