見出し画像

【日々雑感】 思い立ったその時に、想いを伝える。

わたしたちは相手の不在を確認した後で、ようやく感謝や和解の言葉を口にする。

すべてが終わってから伝えても仕方がないことが世の中には多くある。時期を逃すと一生言えないこともある。


引っ越しした後でそれまで共に過ごしてきた友人に、こちらでの様子とこれまでの感謝を伝えようと手紙を書いたが、何かの理由でポストに投函される機会を失くしてしまった。

整頓した小タンスの引き出しの中から偶然それをみつけたものの、何年も経た現在、その手紙を投函してももう遅いのである。

投函すべき時は、手紙を書いた直後であるべきだったのだ。

伝えられるべき言葉や想いが、そのまま宙ぶらりんになったまま年月を重ねていたことで、それらの言葉や想いは今となっては灰も同然だ。

そしてこんな類のことが、案外たくさんあるのである。
伝えたかったのに伝えずじまいだった言葉が。ありがとねとか、助かったよとか、一緒にいられることが幸せだとかの言葉が。

感情と言葉は別である。

感情なんて、各々勝手に生じさせて勝手に持っていればいい。嬉しいなとか、いつも手伝ってもらってありがたいな、とか。

だが言葉にするということは、相手の心に届けようという力を自分の中に生み出さないとできない。口に出したり想いを乗せた行動が、表現としてあるかないかでしか相手には通じない。

「以心伝心」という言葉を自分の都合で使うべきではない。
どれだけ近くにいる相手でも、それは自分自身ではない。自分の気持ちや想い、感謝やもっとこうしてほしいなという頼み事だって、言葉にしなければ絶対に伝わらない。気持ちはそうそう都合よく伝心なんてしてくれない。

感謝と恩の違いみたいなものだ。感謝はあなた一人で勝手に想っていればいい。だが、恩は相手にその感謝を返す行動を伴う。

いくら心の中で想っていても、相手に伝えなければ想っていないのと同じことなのだ。

感情と言葉も同じようなことだと思う。そして伝えるべき時はその都度あらわれ、あっという間に流れ去ってしまう。言葉にするチャンスは日頃いつでも転がっているけれど、それらはどこまでも転がり続け、やがてわたしたちの目の前から姿を消してしまう。

本当は言いたかったのに言えずに死を迎えた人も、決して少数ではないだろう。われわれはいつか必ず死ぬし(それだけがあらかじめ知りえる最大の真実。確実に分かる未来はこれだけ)、それが明日かも、一年先かも分からない。その日までに伝えなければならないことや、気持ちを受け取ってもらいたい人はたくさんいる。

だから急いで伝えなければならない。
今、できうる限り、伝えなければならない。


 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?