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いわゆるLGBTQIAのA

少数の者に味方をしたくなるのはいつものこと。

弱い立場、負けているチームに肩入れして応援したくなるのもいつものこと。

 あらゆる「しきり」

 例えばそれは時間であったり、空間であったり。
―そういう、時代や世界の中での国を超えた場所を意味するのだが―

 例えばそれは老若男女。
―そういう、その人がどういった人間かを、外見から判断し説明するうえで有効となる基準を意味するのだが―

 そういった「しきり」とやらを、
可能な限り取りのぞいた後に残されたものだけで感じあえる部分、
ーそれをわたしは「魂」と呼ぶのだがー

服も着ない、裸のままの魂一つ、身一つで感情や感覚などを交感、共有、いたわり、慈しみ、愛おしむ。
そういう「魂の交歓」なんかができるのではないかと、
実に真剣に頭を働かせていた頃のこと。

 魂の部分で会話するには、男も女もなく、年寄りも幼子もないのだろうと考えあぐねていた矢先のこと。

 わたしは、ふと自問した。

わたしは、誰を愛している? 
過去に恋したことがある?

その結果に驚愕したわたしは、しばらくの間動くことさえできなかった。

 わたしには、恋する対象がいなかったこと。

誰かを狂おしく想った(恋した)経験が、いまだかつてなかったという事実。

 

そんな時分に突如目の前に現れたのがLGBTという問題だったわけ。

 わたしは同性愛者とはいえない。バイセクシャルも名乗れない

残念ながらそれら4つの区分けに、自分は適合しないらしい。

 

それらのうち一つでも名乗れるのは、男性でも女性でも、
とにかく誰か一人でも恋したことがある人間

熱く一つの性に偏れたなら、それはそれでもよかった。

むしろそうでもなれたら幸福でもあっただろう。

だがわたしはどうだった?

 

わたしは女性を愛したことがないし、そうかといって男性を恋い焦がれるほど愛したことも、またないのだ。

 

これは人間的欠陥なのか? 

あるいはこれも人間の一形態と名付けられ、標本のように博物館に展示され、そうでもなければ新たな病名が付されるのかもしれない!

 

それにしても、
周囲にいる大勢の人たちが属しているらしい性的指向と
自分との間に大きなズレがあると気づいた時の驚きと言ったら!

 

子供のころから感じていた、周囲に取り込まれていない感、中に入ることにどこかに引け目を持つ感じ。
間違えて別の星に生まれてしまったのではないかという不安と恐れ。

その辺りの違和感が、解明されてきたことの安心感。
アセクシャルという、誰が作った言葉か知らないけれど、自分のそれまでの不安定さを払拭してくれる言葉を作ってくれてありがとうと謝意の一つも申したいほど救われた。


まあ、それで話は最初に戻るのだけれど、
こんな経緯もあって、わたしは男も女もない魂の部分にいつも惹かれてきたのかもしれないという思いは本当だったのだと思い至ったという次第。
心と体が、自然と求めていたものには嘘がないんだと確信もしたというわけだ。
男女の性別とか老人子供といった目に見える部分の中に潜む、魂の部分との触れ合いを求めているんだという確信。
わたしには、恋愛に割く時間よりも、こういうことに神経を集中させていた方が、ずっと楽しいし、ずっと自分らしいと思えたし、自信をもって好きなことをこれからもしていようと心も穏やかになったということ。


こういったことをつらつらと書くのも(本当は書かなくてもいいようなこと。性的志向を前提ともしないフラットな社会の中にただその人がいるだけ、という単純な社会の在り方がいいと思っているので)、同じように悩んだり迷ったりしている人の助け、気休めになればいいと思うからです。

なんだか「アセクシャル」って、マイノリティの中のさらに少数派に属しているみたいだけど、今なら「だから?」という感じです。自分のことが分かってよかったね、というような。

無理に誰かに恋心を抱かねば! なんて思う必要ありません。
だって興味がないんだもの。興味がないものに懸命になる時間が本当にもったいないと思います。
取り組むものをきちんと作って、方向転換した方がいいです。目的を決めて一極集中して頑張れ。
無理して人と合わせなくちゃ、と苦悩していた過去の自分に声をかけてやれるとしたらそう言いたいですね。



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