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【空間論1】プラトン「コーラ(場)」

アテネを代表するレスラーだったプラトン。広いという意味のPlatoは、彼の体格をみて師匠が付けた仇名です。Platoは、印欧祖語 pele / plat(平らな、広い)まで遡り、place(場所)の語源です。

プラトンは、対話篇『ティマイオス』で「場=コーラ」を論じます。「コーラ」は、謎多き概念。何にでもなり、何とも違う、あらゆる概念的同一性を免れる「コーラ」は、現代の我々に多くの示唆を与えてくれます。 

ティマイオスが語る宇宙創世の場

『ティマイオス』は、ソクラテスを相手にした対話形式の物語(対話篇)です。前日にソクラテスから理想国家論を聞いた3人が、再びソクラテス邸を訪れます。「宇宙の生成から始めて、自然の本性のところで話を終えてもらう」と促された天文学者ティマイオスが、宇宙創世について語ります。

ティマイオスはまず、宇宙を「存在」と「生成」に区別します。
「存在」とは常に同一で、理性や言論などのイデアとして把握されるもので、「生成」とは常に変化し、思惑や感覚によって把握されるもの。創造の神デミウルゴスは、この「存在」を似像(モデル)として万物を「生成」したと、宇宙創世について説明します。

そして、宇宙の構造、運動、魂、惑星、動物、神々の系譜について次々と説明した後、ティマイオスは「第三の種族」について語り始めます。
「第三の種族」とは、「存在」と「生成」に次ぐ第三項のことで、後に説明が加えられる「コーラ(chora、χώρα、場)」です。

どちらでもなく、どちらでもある

「コーラ」とは、「捉えどころのない厄介な種類」のことで、あらゆる生成変化がそこで生ずる場であり、存在の「受容者」のこと。「およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し、しかし自分自身は、一種のまがいの推理とでもいうようなものによって、感覚には頼らずに捉えられるもの」だと、なかなか理解が難しい説明が続きます。

プラトンにとって真実はイデアですが、「コーラ」は、イデアを受容しながら、イデアの似姿(モデル)をそこに成立させる場です。「およそ有るものはすべて一定の場所に、一定の空間を占めて有るものでなければならない」というように、一切の生成変化するものにその場を提供します。

ただし、「コーラ」は、どのような生成物とも無縁なので、それ自身生成変化せず、形も性質も持ちません。それにも関わらず無から有を、不在から現前を生み出し、生成の原因になるものです。我々が感覚的に把握できるのは物質的な生成物だけなので、似像(モデル)にすぎない生成物を、存在と勘違いしまいがちです。目に見える生成物を中心にして世界を創造すると、「イデア」も、「コーラ」も理解することができません。

母としての「コーラ」

そこで、ティマイオスは、この三つの種族について、「存在(イデア)」を父、「コーラ」を母、「生成物」を子、と三人の家族になぞらえられます。一見わかりやすそうな説明ですが、本当に「コーラ」は母のような存在なのでしょうか。

プラトンの概念はそれまで、存在と生成、イデアとその似像、形相と質料、叡智的と感性的などと二元論で説明されていたのに、二元論を超えた第三項として「コーラ」は位置づけられます。存在でも、生成でもなく、そのどちらでもあるような第三項です。

父と母は ”性” という一つの類概念のもとでカップルになりうるのに対して、「イデア」と「コーラ」は同じ類のもとに束ねることができず、家族の例えは誤解を生むかもしれません。
いずれにせよ「コーラ」は、読解の難しい概念です。

デリダのコーラ論

デリダの著作に、その名もズバリ『コーラ プラトンの場』があります。1987年の論考集が、1991年に出版されたものです。

しかし、デリダはその本で「コーラ」の新たな解釈を提案したわけではありません。そこでは、「コーラ」を明確に解釈するのではなく、明確な思考に還元できないものとして理解すべきことを示唆しています。そして、デリダはそこに「脱構築」の力を見いだしたといわれています。

まず、この本では「コーラ」は生成や存在、質料と形相といった対立に対する第三項であることを確認します。それは、二重排除の論理と、分与の論理との間を揺れ動き、二項対立の秩序そのものに揺さぶりをかけるものになるといいます。
「~でもなく、~でもない」といったように二項が排除し合うことと、「~かつ~である」といった分与との間をさまよう論理(ロゴス)を逸脱した準論理、あるいは超論理の世界です。

次に、「コーラ」の固有性について言及します。ティマイオスは「コーラ」を母、乳母、受容体、刻印台にたとえており、そこから母なるものを想起させます。
しかし、この本でも「コーラ」には定冠詞単数女性形 la がつかずkhôra と表記されており、言葉、概念、意味作用、価値として「コーラ」を断定するようなことが避けられています。

そもそも「コーラ」は、いかなるタイプの存在者も指し示していないので、普通名詞で示されるような存在者ではありません。何一つ固有のものを備えず、「極めて特異な非固有性」だけを保持しているといいます。さらにデリダは、こうした「コーラ」の理解を「我々が保持していく必要のあるものである」と、我々を戒めています。

起源へ遡る必然性

デリダは、『ティマイオス』の難解さについて、原理的な二項対立にもとづいた「真なるもの」と、「必然的なるもの」の違いによるといいます。

「真なるもの」とは真なる言説、二元論で語られる哲学や歴史。「必然的なるもの」とは、真なる言説ではないものの、その前に遡ることで現れる必然性です。そして、「起源のさらに手前へと、誕生する以前へと、つまり必然性のほうへと遡っていくこと」を促していくものです。この「必然的なるもの」こそが「コーラ」です。

つまり、「コーラ」は、哲学を丸ごとそっくり問い直す力を持つものだといえます。二元論の起点よりもさらに根源へ眼差しを向ける力、近代的な見方を覆す力、デリダは「脱構築」を「コーラ」に見て取ります。我々も、明確な思考に還元できない把握しがたいものへの理解の助けを「コーラ」に求めることができそうです。

なお、デリダのこの本は、建築家ピーター・アイゼンマンとの共同作業を生み出し、現代建築の分野に影響を及ぼしました。合理的機能性を重視する近代建築と異なり、ポストモダン建築は、機能性に回収されない空間を切り拓いていきます。他にもデリダに引き上げられた「コーラ」は、現代思想の推進に一役かっていきます。


書き終えて

奥深さという意味で「コーラ」以上のものはありません。もともと空間には、このような言語化が難しい奥行きや拡がりが含まれています。
しかし、プラトンの弟子のアリストテレスは、この空間が持つ余剰をそぎ落としてしまい、現代に至ります。
そのため、「コーラ」はことさら魅力的に映るし、現代社会に応用してみたくなります。そこで、企業経営に「コーラ」を応用して論考したいと考えています。
最後まで読んでいただき感謝します。

(丸田一如)

〈参考〉
プラトン 『ティマイオス/クリティアス』岸見一郎訳、白澤社
『 プラトン全集12 ティマイオス クリティアス』、 種山恭子訳、 岩波書店