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多数派に合わせるってかわいそう?

今日は大学で言われた、「マジョリティに合わせる難聴者はかわいそう」という言葉を考えてみます。
こんにちは!くつばこ+のせんです。大学の就職相談に行ってきました。まずい、のんびり寝てる場合じゃない。ということで明日からは早く起きて頑張ろうと思います。

☆多様性の尊重

障害に対する社会の見方は、ここ数十年で徐々に変化しています。以前は、障害は個人の心身機能の問題であり、「治療や訓練をして健常者に近づけるべき」という医学モデルでした。しかし現在は、障害は社会にあり、障害者を無理やり健常者に近づけることは差別だとされ、「ありのままの姿をお互い尊重していこう」という社会モデルが、少しずつ広まってきました。
なので、「ろう者に対して厳しい口話訓練をするのではなく、手話を学ぶ機会を保障しよう」という発想になるんですよね。

☆マジョリティの方法を使いたい人もいる

では、当事者が「マジョリティの方法に合わせたい」と願うのは、どう思われるのでしょうのか。たとえば聴覚障害者が、「マジョリティが使う音声言語を使えるようになりたい、大勢に伝わる方が便利だから声を使いたい」と言ったとします。すると周りが、「いやいや、あなたは聞こえない/聞こえにくいんだから、無理して合わせなくていい。手話も言語だから、わざわざ難しい音声日本語を使わなくてもいい。」と返す。
このときの周りの人に、悪気はこれっぽっちもないと思います。むしろ、手話が言語だとわかっているし、口話訓練の大変さも理解していて、相手のことをよく考えているからこその発言でしょう。ただ時々、その理解の方向が少しズレてる、ということも起こり得るんです。
聴覚障害者が音声日本語を使うことを選べば、多少の不便はあります。それは事実です。ただ、それを本人がわかった上で、それでもマジョリティが使う方法を望むなら、本人の希望を尊重してもらえたらなと思います。

☆選択肢があることが重要

「本人が望むなら尊重してほしい」と書きましたが、これは、様々な手段を知り選択肢が与えられていることが前提です。以前うたの「最も良いことってなんだろう?」のnoteにもありましたが、人間は自分の知っていることでしか判断がつきません。なので、「これが自分にとって最適な方法だ」と思っていたとしても、もっと適した方法を知らないだけかもしれない。「実はこんな方法もある」と知れる機会は重要です。なので、音声日本語しか知らない難聴者がいたら、「手話っていう音声を使わない言語もあるんだよ」と、どこかで誰かがそっと教えてくれたらいいなと思っています。
ただその上で、様々なコミュニケーション方法を知っていて、音声日本語にも手話にも触れていて、どちらのメリットデメリットも知っている。その状態で多数派の方法を使うと決めたのであれば、本人の決意を暖かく見守っていてほしい、というのがせんの思いです。

今日は「普通」に合わせることが、必ずしもかわいそうなことではない。という話をしてみました。マジョリティに合わせる難聴者はかわいそう?少なくともせんは、そんなことはないですよ。


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