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ふつうじゃないことがふつう

今日は、「ふつう」を組み合わせると…という話をしますね。
こんにちは、くつばこ+のうたです。アネビートリムパークラボみずほ店さんでのイベント、とても楽しかったです。中高の時の文化祭みたいな雰囲気が少しあって、とても好きでした。

☆ふつうの定義を「多数派」とすると?

ふつうってどんなことですか、って聞かれたら、「多数派」と答える人は多いのではないでしょうか。多数派に属していれば「ふつう」なわけです。だから、健聴者と聾者、難聴者だと、健聴者がふつうですし、盲者と晴眼者だと、晴眼者がふつうになるわけです。でも、この定義で考えると、ふつうの人っていないんじゃないですか?

☆ふつうが組み合わさると、少数派に

例えば、健常者、身体障害者、精神障害者とかっていう区別であれば、健常者が多数派だと思うので、健常者がふつうなんですよ。でも、この分類を沢山用意していくと、ふつうの人ってどんどん少なくなっていくと思うんですね。そうすると、どんどん少なくなっていって、多数派ではなくなっていきます。ある程度優しくて、みんなの意見を聞けて、困っている人がいたら心が痛み、朝ごはんを食べ、パンよりご飯を食べる回数が多く、果物が嫌いではなく、九九はできるけど、2桁×2桁は暗算では難しく、とかずっと続けていれば、当然そんな人はいない、に収束するはずです。いわゆる反復試行の確率ってやつですね。nを無限大に増やし、0<x<1の時には、(x)^nは0に収束しますからね。

☆ふつうじゃなくても問題ない

つまり、ふつうじゃないことがあることが、「ふつう」なんですよね。だからこそ、ふつうじゃない=障害とはならないわけです。障害になるためには、社会に生きづらさを感じることがある必要があるわけですね。例えば、果物が嫌いと、ふつうでないことがあっても、食べなきゃいいだけで、何も困ることはないので障害じゃないんです。逆に言うと、困り事があったら、いわゆる障害じゃなくても、障害と言ってもいいのではないでしょうか。パンが嫌いと思ってる人がいたとして、どこのホテルもパンしか朝食に提供しないとかになったら、パンが嫌いで食べれない人は障害なのかもしれません。少なくとも、小麦アレルギーは障害になるでしょう。つまり、障害かどうかは環境がどうなのかによって決まるんですよね。これが障害の社会モデルですね。

ということで、最後は障害の社会モデルの話になりました。ちょっと違う世界だったら、障害者と言われていたかも、って思うとちょっと見方が変わりませんか。

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