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寛容は不寛容に勝てる?

こんにちは、うたです。さくらんぼが美味しい季節になりましたね。ちなみに、さくらんぼも桃もリンゴもバラと同じ仲間なんですよね。どれも花がきれいなので調べてみて下さい笑。

今日は「寛容な人は寛容でない人にも寛容であるべきか」について話していきたいと思います。

☆寛容な人は寛容でない人にも寛容であるべきか

僕が高校の時に、インクルーシブ教育の推進と言いながら視覚障害者に対する情報保障をする気がない人のことを、親しかった現代文の先生に愚痴りました。その時に投げかけられた言葉が「寛容な人は寛容でない人にも寛容であるべきか」という言葉。こんな短い文章なのに、寛容という言葉が3回も出てきて、混乱しやすいですね。でも、よく考えると深い言葉じゃないですか?ちなみに今調べてみたところ、「寛容のパラドックス」という有名な話らしいです。

☆自分自身は寛容?

実は一つ問題があって、僕自身が全てにおいて寛容ではないかもしれません。頭を使ってないせいで素早くラーメンが提供できないアルバイトとか、給料もらっておきながら教科書を読み上げるだけの自動車教習所の先生とか、見てるだけでとってもイライラします。こんな性格だからこそ、情報保障に理解のない人に対しても愚痴を言ってたんでしょう。僕自身はすべきことをせず他人に迷惑をかけることに対して、寛容ではないんだと思います。

☆寛容のパラドックス

前置きはこのくらいにして、寛容のパラドックスのことに入っていきましょうか。寛容のパラドックスはわかりやすく説明するなら、究極的に寛容であれば、寛容でない人も受け入れる必要がある。しかし、それは非寛容な社会の創造に繋がってしまう。言い換えると、究極的な寛容の追求が、非寛容を助長するということですね。これらについて考えていく哲学的な問いです。

☆「障害」を考えるときに避けては通れない?

「障害」の世界において、寛容のパラドックスが多数存在するのではないでしょうか。例えば、聴覚障害者に対して情報保障をしない人は不寛容な人ですが、この人に対して不寛容であるべきかどうかは完全に寛容のパラドックスそのものです。もっと広いことを言うと、障害者が生きている価値があるというのは寛容な考えかもしれません。それとは逆に、障害者は生きてる価値がない、生産性がないという不寛容な意見もあります。こんな意見に対して寛容であったら、優生学や相模原の殺傷事件を正当化することに繋がってしまうのではないでしょうか。

☆僕としては寛容であれないかな。

こんな世界は嫌なので僕は高校生の時から今まで一貫して、寛容でない人に対して寛容ではあれないです。だって、他人に迷惑をかけているから。だからこそ、情報保障をする気がない人のことを愚痴ることに抵抗がないのでしょう。やはり、寛容は不寛容に対しては抵抗能力を持っていないのでしょうかね。

個人的には、このようなパラドックスについて考えるのは好きなので、寛容のパラドックスの本を夏休みに読んでみたいなと思いました。あと、最初のエピソードは音声ガイドを作る時に言われた事です。良かったらそちらも読んでみて下さい!では、また会いましょう!またね!


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